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 エバンス・アンド・サザーランド(Evans and Sutherland)社の創設に関わったアイヴァン・サザーランド(Ivan Sutherland)は、コンピュータ・グラフィックスの父として知られている。一方で、コンピュータ・グラフィックスの基礎技術が米国の軍事技術開発と深い関わりをもっていたのがサザーランドの経歴から読みとれる。

 1955年にカーネギー工科大学(現カーネギーメロン大学)に入学したサザーランドは、卒業後の1959年にカリフォルニア工科大学大学院に進み、1960年にはマサチューセッツ工科大学大学院リンカーン研究所に在籍した。

 同研究所では、修士論文「リレーとスイッチ回路の記号論的解析」で世界で初めて計算機にブール代数を適用、計算機に2進法の概念を持ち込んだクロード・エルウッド・シャノン(Claude Elwood Shannon)と出会っている。

 このリンカーン研究所はマンハッタン・プロジェクトの中核研究機関で、SAGE(北米大陸核攻撃防空システム)の開発が行われたことで知られている。

 サザーランドは、コンピュータの図形処理の研究を続け、1962年にスケッチパッドと呼ばれる対話型図形処理システムを開発した。このスケッチパッドに注目したのが国防省であった。その後、1964年、国防省から招請されて情報処理技術研究部長に着任、1968年、3次元ヘッド・マウンテッド・ディスプレーを開発した。なお、この3次元ヘッド・マウンテッド・ディスプレイは、時を経て、米軍の戦闘用武装ヘリコプターであるアパッチの暗視システムなどへ援用されている。




 1966年に国防省を退職し、ハーバード大学に移ったサザーランドは、現在に至るコンピュータ・グラフィックスの基礎技術である隠線消去、精密描画(レンダリング)、 3次元ハーフトーン技術などを確立した。

 この間、ユタ大学のディビッド・エバンス(David Evans)は1965年に同大学にコンピュータ・グラフィックス部門を創設した。やがて、ユタ大学コンピュータ・サイエンス学部講師を兼ねていたサザーランドとエバンスは出会い、本格的な研究を展開するため、両部門をコンピュータ・グラフィックス部門へと統合した。

 その後、エバンスとサザーランドは1968年にエバンス・アンド・サザーランド(Evans and Sutherland)社を設立した。

 このユタ大学での彼らの研究は、その後、ダイナブックを提唱したアラン・ケイ(Alan Curtis Kay)、シリコン・グラフィックス( Silicon Graphics)社を創設、さらにネットスケープ(Netscape)社を創設し、インターネットのブラウザで衝撃を与えたジム・クラーク(Jim Clark)などに大きな影響を与えたといわれている。

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