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 11月です。季節は正直で、めっきりと寒くなりました。空を見上げると、済んだ空気のせいで、この街でも星々がくっきりと見えます。

 ページの上の文字を追いかけ、イメージをふくらませるのが読書の醍醐味ですが、誰かに読んでもらい、耳で聴くのもいいものです。といって、本を読んでくれるような人はいないな....。それなら一人で声を上げて読んでみればいい。 何をしているのかと思われるといけませんから、その時は一人です。




 宮沢賢治の作品は、声をあげて読み、それを聴くとまた違った雰囲気を醸し出します。

 賢治のことを知らない人はいないでしょう。最近の教科書に載っているのかはわかりませんが、筆者が小学生の頃には、彼の作品は定番でした。有名な「雨にも負けず、風にも負けず.....」(原文/「雨ニモマケズ/風ニモマケズ」)も教科書で最初に読んだ記憶があります。

 「雨にも負けず、風にも負けず.....」については、先生が道徳の手本のように賢治を語った違和感が思い出されます。子供心にも、こんな立派な人はいない。こんな立派にはやれない。先生の持ち上げ方の中に嘘が隠れていると思ったからでしよう。

 彼の生涯を振り返ると、とても複雑で、道徳の手本になるような簡単なものはありませんでした。

 法華経の熱心な信者、宗教者である反面、化学者でもあったこと。冷害に苦しむ貧しい農民の生活を身近に知りながら、自身は経済的に恵まれた環境で育ったこと。夭折してしまう妹との不思議な関係。さまざまに引き裂かれていたわけです。

 最期の「そういうものに私はなりたい」(原文/「サウイフモノニ/私ハナリタイ」)は彼のかなわぬ理想だったのでしょうか。現実は、彼一人ではどうにもならないほど、厳しかったはずです。それでも、彼の中には決して嘘はなかった。道徳の手本などでは収まらないほど、「サウイフモノニ」なろうと本気で考えいたからです。それは彼の童話を読むとわかります。



 彼は、童話(と考えられている)を童話として書いたのではないのではないか。ずっと、そう考えています。全ての作品が死後に発見されましたし、公表を期待していたのかも定かではありません。

宮沢賢治童話大全
 「銀河鉄道の夜」は、死者たちの物語です。「よだかの星」は、とても不可能な自己犠牲の物語です。「風の又三郎」にしても、実は不気味な物語です。

 主人公たちも、現実との和解ができずに、はぐれていて、孤独で、理解されることが少なく、いつも自分自身とだけ話しをしているような人物たちです。

 何故、彼の作品は優れて読み継がれているのでしょうか。それは読むものに「何かを越えてしまう」との感覚を与えるからだと思います。

 優れた文学作品は、いつも読むものにそんな感情を呼び起こします。「この人だけが私のことをわかってくれる」「この人のことは私だけがわかってあげられる」という思いこみの感情です。思いこむから「何かを越え」られる。恋愛も似たようなところがあります。

 さまざまに引き裂かれていた彼が、自身を慰撫し、自身を確認するように書き連ねた作品が、遠く時空を隔て、たった一人の読み手に、「この人だけが私のことをわかってくれる」と慰安を与えるのだと思います。

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