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 2008年2月6日(米国2月5日)。スーパーチューズデーの真っ最中。ヒラリー・ローダム・クリントン(Hillary Rodham Clinton)とバラク・オバマ(Barack Hussein Obama,Jr)。決着はついていないが、どちらかが次の米国大統領となるだろう。

 二人の自伝、著書を読み直してみた。二人は何者なのか、そして今、米国で何が起こっているのか。




 初めての米国体験は、小学生の頃だった。近くに自衛隊基地と臨戦した米軍キャンプがあった。高い塀で遮られた向こう側は、まだ貧しかったこの国の風景とは明らかに違っていた。よく手入れされた広々とした芝生、プールで歓声を上げる子供。塀の裂け目から入り込んだ。塀の中が治外法権で、射殺されても仕方ないのも知らなかった。5分ほどで中年の黒人男性に捕まったが、子供だったからだろう。お咎めもないし、正面ゲートから放免された。

 地域との交流のための住民招待イベントがあった。今度は堂々と正面ゲートから中に入った。あちこちの家の前でバーベキューをやっている。歩き回っていると、あの黒人男性と再会した。彼は何の躊躇もなく、大きなステーキが乗った皿を手渡してくれ、家の中に招き入れてくれた。彼は軍服を着ていた。

 交流は続いた。高校生になった頃、ベトナム戦争が激化、米国への疑念が生まれた。何の疑いもなく、彼を訪ねられなくなった。塀越しに中を見ていると、屈強な男たちが隊列を組んで走っている。ベトナム出兵を控え、訓練しているに違いなと思った。

 音楽、映画などを通して、米国への親和性がなくなることはなかった。仕事で米国を訪ねるようになる。印象的だったのは、湾岸戦争の直後のニューヨーク。沢山の星条旗がはためき、人々は高揚していた。最強の軍事国家、やる時は徹底的にやる。親しみを感じると共に、徹底さに恐れも感じた。普段は米国を特に意識しないが、今回の大統領選の結果は、この国の行く末に大きな影響を与えるだろう。初の女性大統領、初の黒人大統領。何かが起こる。




 ヒラリー・ローダム・クリントン(Hillary Rodham Clinton)。1947年10月26日イリノイ州シカゴ生まれ。団塊の世代。父親のヒュー・ローダムは繊維業を営む共和党保守主義者、母親のドロシーは専業主婦。
 マサチューセッツ州の名門女子大ウェルズリー大学に入学。1968年の大統領予備選でベトナム戦争介入反対を主張した民主党のユージーン・マッカーシーを支持するが、ワシントンでは下院共和党議員総会インターンに従事。共和党党大会でニューヨーク州知事ネルソン・ロックフェラーのキャンペーンに参加。まだヒラリーはヒラリーにはなっていなかった。

「リビング・ヒストリー ヒラリー・ロダム・クリントン自伝」
著者:ヒラリー・ロダム・クリントン/翻訳:酒井洋子/早川書房刊/726ページ/2003年12月23日
 1969年、イェール大学ロースクール入学、ビル・クリントンと出会う。1972年、ビルも参加していた民主党のジョージ・マクガバン大統領候補の選挙運動に加わる。ロースクール卒業、児童防衛基金で働き、1974年、下院司法委員会のニクソン大統領の弾劾調査団に参加した。

 アーカンソー大学ファイエットビル校ロースクールで教鞭を取る。ここでもビルと一緒。1974年、ビルはアーカンソー州下院議員選で落選、翌年、ビルと結婚。
 アーカンソー州司法長官となったビルと共に州都リトルロックへ移る。ローズ法律事務所に務める傍ら、1978年、32歳の若さビルがでアーカンソー州知事に当選、州のファーストレディーとなる。
 弁護士活動も続ける一方、ヘルスケア普及を目的とする地方健康諮問委員会の議長となり、カーター大統領の指名で連邦議会設立の非営利団体の司法事業推進公社の理事を務めた。1991年11月、ビルは現職のブッシュ大統領を破って当選、ヒラリーと共にホワイトハウス入りする。

 米国のどこにでもあるような共和党支持の中産階級に育った女性がエスタブリッシュしていく過程。2月4日、5日にNHK衛星放送で放映された「ビルとヒラリー」のドキュメンタリー番組によると、州知事在職中から、ビルには何人もの愛人がいたという。容貌に自信も持てないヒラリーは苦しんでいた。

 ビルとヒラリー。彼らが男女として何故、結びついたのかの深層はわからない。いえるとすると、ある時期、政治的同志としての誓いを交わしたのではないか。この番組では、ビルが二期目の大統領職を終える頃、ヒラリーは明確に、初の女性大統領になると決心したのではと語っていた。

 ビルは女性にもてる。大統領選挙時、過半を超える女性からの支持を集めた。彼の育った経歴を知ると、周囲に気配りせざるを得ないような環境だった。ワシントンではモニカ・ ルインスキーとの「不適切な関係」が明らかとなる。ヒラリーは怒り狂い、ビルに何度も襲いかかったという。
 女性関係に甘い駄目な男。男としてはできすぎたヒラリーは怖い。女性からはひんしゅくをかうだろうが、モニカ・ ルインスキーに目移りしたのもわかる。
 そんな駄目な普通の男が大統領をやっている。脇が甘過ぎる。それでも、同世代の米国民はビルが好きなのだ。クリントン時代は経済も好調だった。9.11はまだ遠い先のこと。良い時代だった。

 CNNの報道によると、ヒラリー支持者の中には、同世代の女性が多い。専業主婦として「女は家にいるものだ」と教育され、そのプレッシャーをはねのけ、社会進出を果たした女性たち。彼女たちは「女性初の大統領」誕生に、自らの歩みの集大成を見ている。
 オバマ支持の女性は、彼女たちの娘。団塊ジュニア。母親たちが闘いの中で獲得した権利も、ライフスタイルも、性的な寛容さも、生まれた時からすでに目の前にあった。母親たちが獲得したものは当たり前。もっと先に行きたいと考えている。それがオジマを支えている。

 政治的な同志となったビルとヒラリー。政界のインサイダーとして数々の疑惑もあった。州知事時代には、疑惑に絡み、スタッフの自殺もあった。二人で手も汚したはずだ。同世代だからなのだろうか、シンパシーを感じる。ビルとヒラリー。一緒にホワイトハウスに戻って欲しいと思うが、時代は、更に先の大統領を求めているのかもしれない。




 バラク・オバマ(Barack Hussein Obama,Jr)。1961年8月4日、ハワイ生まれ。米国の多様性を体現している。

 ケニア留学生の父親とカンザス出身の典型的な白人家庭出身のスウェーデン系の母親との間に誕生。父親はオバマが2歳の時にケニアに帰る。幼年時代、再婚した母親とインドネシアで過す。10代には母親と離れて、ハワイ在住の母方の祖父母のもとで育つ。

 父親は熱心ではなかったがイスラム教徒。オバマ自身はプロテスタント。経歴を読むだけでも、オバマが若くして多くのものを見たのがわかる。自分は何者なのか。自身の中で多様性を統合できないと、アイデンティティー分裂の危険性もある。間違った方向へ誘う誘惑もあったはずだ。オバマの原動力は何か。彼は何かを乗り越えた人物なのは確かだ。

 酒乱の義父、暴力に耐えながら、ほとんど母子家庭のような家庭。ビルが育った環境には黒人たちか多くいた。彼は「黒人よりも黒人らしい」と、アフリカ系アメリカンからシンパシーを寄せられている。ビルとオバマ。二人の育った環境の複雑さを知る時、彼らは親和性を感じているのではないか。もしかすると、オバマは、「黒いビル・クリントン」だと、黒人層には思われているのかもしれない。

「合衆国再生―大いなる希望を抱いて」
著者:バラク・オバマ/翻訳:棚橋志行/ダイヤモンド社刊/416ページ/2007年12月14日
 ハワイ屈指の私立予備高校を経て、コロンビア大学、ハーバード大学のロー・スクールへとキャリアを登っていく。ロー・スクール在学中には、ニューヨークとシカゴで低所得者層支援のコミュニティーを組織するプロジェクトを立ち上げる。弁護士資格を取得後、アフリカ系アメリカンとしては初のロー・スクール・レヴュー代表となる。ロー・スクール卒業後、高額な収入が約束されるエリート弁護士事務所に所属せず、シカゴの貧困地域へ向かい、コミュニティー・オーガナイザーとして働く。

 オバマは、ここで黒人とは何かというアイデンティティーを発見したのではないか。貧しい彼らが公共住宅に入居する権利の擁護、雇用確保のためのサポート、子どもたちが正当な教育を受けられる環境整備。市民弁護士として日々、闘っていたという。


  イリノイ州に移ると、シカゴでの経験を押し進め、人種偏見の先入観捜査・取り調べ(レイシャル・プロファイル}廃止を唱え、子供達の教育環境を向上させるイリノイ・プロジェクトを提案、実現へと繋げる。1996年にはイリノイ州議員となる。

 2004年7月、ボストンの民主党大会でオバマは基調演説「The Audacity of Hope(希望によってもたらされる大胆さ)」」で衝撃的にデビューする。オバマは自らの半生を披露しながら、『アメリカの素晴らしさは、高層の摩天楼、世界最強の軍隊、強い経済にあるのではなく「全ての人間は平等で自由と幸福を追求する権利がある」との建国精神にこそある」と語った。
 この演説を聴き、ヒラリーが拍手する映像が何度も流された。オバマは、この段階で大統領を目指していたのかだろうか。2004年11月イリノイ州選出の上院議員に当選する。

 笑えないエピソー。イリノイ州選出の下院議員としてホワイトハウスを訪れた際、彼のバッジの「Support Obama」を見て、ブッシュが「Support Osama?」と驚いたという。「オサマ」と間違えたらしい。「オバマです」と答えると、ブッシュは「そんな名前の政治家は知らない」といったそうだ。やがて彼の8年間の施政を厳しく批判し、歴史の裏側に押しやるかもしれない存在とは知らずに....。

 オバマ支持層は、これまでの民主・共和の二大政党に飽き足らない無党派、若者が中心だといわれている。よくわからない動きもある。昨年の3月だったろうか。USA TODAYの電子版で「crossover appeal」という言葉を読んだ。彼は黒人層からの支持も増やしているが、伝統的な保守白人層、エスタブリッシュメントからの受けもよい。
 億万長者として著名な投資家ウォーレン・バフェットは、5千ドル(個人献金の上限)をオバマの政治団体に寄付している。大学時代の友人で、共和党全国委員長の経歴をもつケン・メルマンは「あいつは良い奴だから、是非、成功して欲しい」と語ったという。

 人種、宗教、経済的な立ち位置、性別、年齢をcrossoverして支持を広げる。一方で、政治権力を手に入れた後、実際の施策は、妥協の産物とならざるを得ない。彼の多様性は困難さも内包している。

 ビルとヒラリー。団塊の世代。若者たちはもう退場を求めているのかもしれない。闘って多くを獲得したのは知っている。でも、もういいのではないかと。
 まだ選挙権もない少女がインタビューで語っていた。「アメリカは世界のあちこちを侵略して世界中から嫌われている」「もう一度、好きになってほしい」。

 大統領候補、副大統領候補がペアとなり、予備選はできないのだろうか。ビルとヒラリー、そしてオバマ。彼らが手を組めば最強。

 冷静になる必要もある。バブルが崩壊し、この国が忘れられた10年に苦しんでいた頃、経済的な緩和施策を強固に迫ったのはクリントン政権だった。第二の敗戦ともいわれたほど、彼らの介入は、この国のあらゆる問題に及んだ。その善し悪しは検証する必要もあるが、その介入は当を得ていた。自戒を含めて、この国も課題は、自ら考え、問題を解決しようとの方向性をもてないことだろう。どちらが当選しても、一筋縄ではいかない強敵となる。

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