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 ビル・エヴァンス。孤高のジャズピアニスト。こんなピアノが弾けたら、もう何もいらない。どんなに大きな代償を払おうとも、人生で大切なものを失っていい。彼のピアノを聴くと、そう思ってしまう。

 時に優れた芸術家は普通の生活者からすると、こんなにもと思えるほどの破滅的な人生を送る。素晴らしい作品を生み出すためにきっと身を削るような修練と他のことは何もみえないような時間を過ごしたのだろう。

 「ビル・エヴァンス-ジャズ・ピアリストの肖像」(ピーター・ベッティンガー著/水声社)。表紙の写真を見て欲しい。

 ジャズはアフリカ系アメリカンの独壇場。そんなジャズシーンの中で白人ピアニストとして活躍したエヴァンス。容貌は一見すると、まるで実直なビジネスマンのよう。実際はドラッグに溺れ、素晴らしい演奏を聴いたアフリカ系アメリカンのプレーヤーから仕事が奪われると逆差別も受けるような日々。

 本作はを読んで、少しは彼の創作、演奏の背景に何があったのかわかったような気がする。




 ビル・エヴァンス(Bill Evans/William John Evans。1929年8月16日、ニュージャージー州プレーンフィールド生まれ、1980年9月15日没。

 移民の国、アメリカ。彼の出自も、そんなアメリカ人のひとつの典型かもしれない。エヴァンスはウェールズ系の名字だが、母の名字であるソロカに彼の音楽の秘密を紐解く鍵がある。ソロカはロシア系の名字だ。母マリー・ソロカはギリシャ正教会に通い、そこで音楽に触発され、よくピアノも弾いていた。

「私の子供時代の想い出は、この家系の親戚が頻繁に集まっては歌い、共に宿した精神に温かく彩られています」と語っている。

 兄に続き、ピアノレッスンを始めたのは6歳半。子供時代はスポーツにも熱心で、特にゴルフにはとりつかれたようにチャレンジしていた。そんなごく普通の少年時代だったようだ。ピアノレッスンは正統的なクラシック中心で、10代前半にはモーツァルト、ショパン、ベートーベンなどの楽譜を初見で演奏できるようになる。

 彼が初めてジャズを聴いたのは12歳の時だった。やがて人前で演奏する機会を偶然に得ることになる。学校のリハーサルバンドで兄がトランペットを担当していたが、ある日、ピアニストが発疹にかかり、彼が代役として迎えられた。それから間もなく、ジャズの初仕事をもらえた。

「ある晩、タキシード・ジャンクションを演奏していた時、閃いてちょっとブルースっぽい演奏を取り入れてみたんだ。(中略)。音楽で誰もが思いつかなかったことをするという考えは、私にはまったく新しい世界への門戸を開けてくれた」

 彼はやがて地方劇場、結婚式などでプロとしての仕事を始める。若くして触れたクラシック音楽、自由な独創が許されるジャズ。後年の彼の音楽スタイルのルーツは、この頃にさかのぼれる。



 時を経て、マイルス・デイビスと出会う。マイルスの友人のジョージ・ラッセルがビルをマイルスに紹介したと語っている。

「(前略)。私にいいピアニストを知らないか訊ねてきたんだ。私はビルを推薦した。
「そいつは白人か?」とマイルスが訊ねてきた。
「そうさ」と私。
「眼鏡をかけているか?」
「ああ」
「そいつなら知っている。バードランドで聴いたことがある。かなりの腕前だ。木曜の晩にブルックリンのコロニー・クラブに連れてきてくれ」

 このクラブは黒人街のギャングが支配していた。よほどのことでもなければ白人は決して近づかない場所。ジョージ・ラッセルと共にクラブを訪ねると、当時、一世を風靡していたマイルスのセクステットが演奏していた。フィリー・ジョー・ジョーンズ、ポール・チェンバース、レッド・ガーランド、キャノンボール・アダレイ、ジョン・コルトレーン。最初の演奏の後、レッド・ガーランドに代わり、彼がピアノを弾いた。

 演奏が終わると、マイルスは「雇うことに決めた」と語ったという。そして、1954年4月にビルは正式にマイルスのバンドに加わった。

 彼らが演奏している映像が残っている。ビル以外は全てアフリカ系アメリカン。その中に交じり、表紙にあるビジネスマンのような姿でひたすらピアノ演奏している。今、見ればそれほど異様には感じないが、当時は露骨な人種差別があった時代だ。白人社会からはなかなか理解されなかったに違いない。

 そんなビルを採用したマイルスも「白を使うのか」などと誹謗中傷も受けていた。それでもマイルスは一切 気にせず、ビルを雇い続けた。やがてマイルスはジャズシーンだけでなく、20世紀の音楽シーンにおいて革命的な出来事として記録される演奏スタイルを確立する。その背景には、クラシックの音楽理論をもつビルの貢献があった。




 マイルスの元を離れたビルは、求めていたに違いない演奏を実現するピアノ・トリオをドラムスのポール・モチアン、ベースはスコット・ラファロと結成する。そして生まれたのがポートレイト・イン・ジャズ(Potrait In Jazz)。

 このビアノ・トリオは三人とも白人。異彩を放っていたのがスコット・ラファロだ。このトリオが出現するまで、ジャズ演奏におけるベースはリズム中心の縁の下の力もちのような存在だったが、スコット・ラファロのベースは超絶的なテクニックでメロディーを奏でている。まるで三人が楽器で会話をしているように。

 サンデイ・アット・ザ・ビレッジ・ヴァンガード(Sunday At The Village Vangard}も素晴らしい。

 ライブ演奏なので、聴いているお客の食器が触れ合う音も聞こえてきて、そこに座って彼らの演奏を聴いているように感じられる。

 これも名盤のワルツ・フォー・デビー(Waltz for Debby)を録音したわずか11日後の1961年7月6日に、スコット・ラファロは交通事故で27歳の若さでこの世を去ってしまう。モノクロ写真を見たことがあるが、スコット・ラファロは、少年のような面影で、慈しむかのようにベースを奏でていた。

 スコット・ラファロの死を聞いたビルはまるで廃人のようになってしまったという。その後、彼の亡霊を追いかけるかのように、新しいバンドを結成するが、当時の作品を凌駕するものは生まれなかったように思う。

 ビルがドラッグ(マリファナ)に手を染めたのは軍隊時代。やがてヘロイン、メタドン、、コカインに手を出す。ドラッグは彼を追いつめた。仕事もできなくなり、ガールフレンド共々、アパートを追い出されたこともある。彼は肝炎を患っていたが、そんな状態でヘロインを摂ると、激痛に襲われる。

 何度もドラッグと手を切ろうと努力もしている。グランド・ピアノと共に、両親が住んでいたフロリダに避難もしている。

 完全にドラッグと手は切れなかったようだが、晩年(となってしまった)、1975年、妻のネネットとの間に息子をもうけている。名前はエヴァンス。ようやく家庭も手に入れ、経済的にも安定する中で彼は何度目かの再起を果たす。最も幸福な時期だったのだろう。

 母方の血のせいだろうか。彼の演奏にはロシア的な抒情を感じる。ジャズに触れた青年期にとりつかれた「音楽で誰もが思いつかなかったことをする」との思いに促されて自らスタイルを追求していく。ピアノを弾くという以外の全てのことに関心はなかったのに違いない。

 本書を読むと、彼のよく知られた演奏がどのようにして成立したのか、他の演奏者との間でどのような音楽的な交流があったのかがつぶさに明らかになる。彼はもういないけれど、アルバムを聴くと、そんなピアノにとりつかれてしまった一人の男の姿が浮かんでくる。


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