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 CATVの歴史回顧番組で、今年も8月半ばに終戦(敗戦)回顧番組が放映されていた。モノクロの重苦しい映像、感情を極力廃したような佐藤 慶のナレーション。極東軍事裁判、いわゆる東京裁判のドキュメンタリー映画。

 映画の最後に「デス・バイ・ハンギング(絞首刑)」との宣告が東条英機などの被告に言い渡される。その中で、一人だけ文官だった広田弘毅。傍聴席の家族に向かって、黙礼して去っていく。

 この極東軍事裁判をどのように捉えるのか。未だに、この時期になると、さまざまな見解が表明される。ここでは、その論争には触れない。一人だけ文官として死刑判決を受けた広田弘毅。彼を死刑に処すべきかは、判事団の間でも意見は分かれていたという。取り調べ段階では詳細な供述をしたとのことだが、彼は裁判では証言台には立たず、弁明はしていない。

 どんな人物だったのだろうか。以前から気になっていたが、中公新書から『広田弘毅 「悲劇の宰相の実像」』(服部龍二著)が刊行された。本書を元に、広田弘毅について考えてみた。




 広田弘毅については、作家の城山三郎が「落日燃ゆ」で詳細に描いている。暴走する軍部に抗しながら、結果的に戦争に加担し、文官にも関わらず戦争責任を問われた。死刑判決も超然と受け入れ、家族に対する細やかな愛情も示しつつ、命を落とした人間味溢れた人物。本書でも、「落日燃ゆ」によって広田弘毅へのイメージが決定されたとしている。

 著者の服部龍二氏は1968年(昭和43年東京生まれ。92年東京大学法学部を卒業し、現在は中央大学総合政策学部准教授。日本外交史、東アジア国際政治史を専門とし、関係する著書も多い。著者も「落日燃ゆ」を読んだのが本書執筆の遠因だと記している。

 筆者のようなものにとって、外交は最も遠いところにあり、その実態に触れることはない。外交は、どの国家においてもプロフェッショナルに閉じられた専門性の中で演じられており、特にこの国では情報は開かれていない。
 それでも国家間の争いを軍事によらず解決するためには外交に依らなければならない。あの時代、戦争へと傾斜する中で、外交官としての広田弘毅がどのような役割を果たしたか、どのような人物だったのかを振り返るのは、その意味では極めて現在的でもある。

 著者はあとがきで次のように書いている。『広田はむしろ軍部に対抗する姿勢が弱く、部下の掌握もできずにおり、そしてポピュリズムに流されがちであった。(略)。外交家は、国家が重要な岐路に立つときほど、うつろいやすい世論やポピュリズムと距離を保たねばならない』。この論旨を元に、本書は書かれている。




 広田弘毅。彼はどのようにして外交官となり、やがて外相、首相となり、国家の中枢に上り詰めたのか。そして、文官として軍部とどのように関わったのか。その二つの視点から本書を紐解いてみた。

 広田弘毅は1878年(明治11年)、福岡の小さな石屋の長男として生まれた。本書によると、評判の石屋で、手広く商売もしており、赤貧に喘いでいたとの伝聞には異を唱えている。それでも彼は一介の商家の若者であり、権力中枢へと続く回路は持っていなかった。ある地方都市の青年が国家権力の中枢に上り詰め、外相、首相を務めるに至ったかが紹介されている。その経過を読むとき、今でも、野心ある青年が国家権力の中枢に近づいていく回路は変わらないのではと思わせる。

 今でも地方には優秀な若者を支援し、中央に送り込み、地方の利益代表として仕立てるシステムがあるのではないか。広田の場合は、玄洋社といわれる組織が重要な役割を果たした。玄洋社は1881年(明治14年)に発足した国家主義的な団体であり、連綿と続いている右翼の草分け存在だった。一高、東京帝国大学法科大学政治学科へと進むため上京する際の資金援助、東京での生活への支援も、この玄洋社が行っている。

 著者は「落日燃ゆ」で城山三郎が、広田弘毅は玄洋社の構成員でなかったとしているのは誤りだと指摘している。著者が発掘した資料によると、広田弘毅は玄洋社の正式な構成員であり、名なした後も、陰に日向にと、玄洋社との関係を持ち続けたとしている。
 
 アジアを好き勝手に席巻していた帝国主義列強に対抗しなければならない。そのためには帝国日本はアジアの盟主とならなければならない。明治以来、日本は脱亜入欧、富国強兵策をとる中で、アジアに対するアンビバレンツな思いを強めていった。広田はそんな「国士的な」思いを秘めつつ、外務省に入省する。




 小泉首相時代、抜擢された田中真紀子が外務省内の派閥抗争に巻き込まれたように、外務省に入省した広田も、派閥抗争の中で、自らの基盤を巧みに形成していく。そこには婚姻による門閥の形成から、情状人事に至るまで、外務省という官僚組織が閉じられており、その閉鎖性と派閥維持のために、重要な政策決定までが左右されたのかが列記さている。

 広田はロンドン駐在を経て、欧米局長、駐ソ大使などを歴任している。当時の一般国民が知り得ない諸外国の事情に精通する立場にあったし、特に米国との国力の違いなどは肌で感じていたはずだ。それにも関わらず、戦争への加担を強めていった。
 青年期に接触した玄洋社との関わりと外務省内のパワーバランスを最重要視する中で、判断を誤っていったのではないか。

 1931年(昭和6年)、満州事変、1933年(昭和8年)、国際連盟脱退。困難な状況の中で広田は斉藤実内閣で外相に就任する。これによって外交官としての広田は政治家への道を歩み出す。次の岡田内閣でも外相に留任し、中国との関係改善に努める。
 中国との関係改善....。すでに満州国という傀儡政権を樹立し、侵略を進めている中での関係改善。あくまでも、その当時の日本の獲得した権益維持を前提とした関係改善だった。すでに戦争へのサイは投げられていた。

 1936年(昭和11年)には2.26事件。その後、広田は首相に就任、わずかに和平への期待を込めて1937年(昭和12年)に発足した近衛文麿内閣では再び、外相となる。そして本格的な日中戦争が勃発する。

 この後、広田の迷いを感じさせる動きが顕著となる。太平洋戦争完遂を目的とする東条英機内閣の発足へは賛意を示す反面、かつての駐ソ大使時代の人脈など辿り、失敗に終わるが、ソ連を通じて終戦工作も試みしている。




 極東軍事裁判で広田の弁護団は彼が受動的な立場に追い込まれたとの弁明を引き出している。本書による1947年8月29日付けの広田談話。「陸軍が陸軍の総意として自分(広田)又は政府に対して我意を張り強要的態度を執ったことは度々あった」。

 彼が主に陸軍の暴走を危惧していたのではとの思いはある。それでも旧帝国憲法下、陸軍を中心とする軍部は最終的には統帥権の独立を御旗に、政府を実質的に骨抜きにしていった。その過程で、誰にはどんな抵抗できたのだろうか。

 一人、文官としての絞首刑に処せられた広田弘毅。判事団の評決は一票差であったと記されている。それでも、日本が戦争へと向かう端緒となった1930年代に、広田は外相、首相として日本の進路決定に関わった。

 彼の悲劇とは何だったのか。それは権力中枢へと最短距離で近づく回路を見つけだし、その支援の元に、外交官、やがて政治家として政権を担う立場となり、一方では閉鎖的な外務省組織に絡めとられていったことだ。

 有名、無名に関わらず、人は誰もが、たったひとつの人生しか生きられない。そこにはもしもが介在する予知はないのだが、彼が出自の中で、生きていればとの思いが残る。

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