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 「ブラック・ケネディ」。少し前ならば、この本のタイトルは、センセーショナルであり、採用されなかったかもしれない。この原稿を書いているのは10月25日。さまざまな報道を総合すると、11月4日に当選者が決まる米国大統領でのオバマの優位は動きそうもない。

 著者のクリストフ・フォン・マーシャルは、1959年、ドイツ・フライブルク生まれ。フライブルク大学大学院博士課程を修了した後、新聞記者として経験を積み、現在は日刊紙「Tagesspiegel(ターゲスシュピーゲル)」のワシントン支局長を務めている。

 9..11同時多発テロの報道によって2001年にGerman-American Commentary Awardを受賞、現代アメリカ政治への深い洞察と徹底した取材で高い評価を受けている。

 生まれた年からオバマ氏と同世代であるのがわかる。そして、彼がドイツにその出自があるため、「ブラック・ケネディ」とタイトルをつけられたのかもしれない。公然と人種差別を表明しなくとも、米国の白人の中には、オジマをケネディと同一視する見方には抵抗があると思えるからだ。




 J・F・ケネディ。初の衛星中継で飛び込んできたのが彼の暗殺事件。遠く離れた東洋の島国の少年にも、彼の評判は届いており、どうしてだか、涙を流したのを覚えている。その後、年を経て、彼の業績には光と影があるのを知る。

 共産主義への偏執的な恐れがなければキューバのカストロともよい関係を築けたかもしれない。彼はCIA主導で秘密裏にキューバ侵攻を行った。ベトナム戦争への本格的な参戦への道筋も作った。マリリン・モンローとの交流の噂。それは人間的だとしても、マフィアがらみの噂も背後に見え隠れしていた。それでも、9.11も知らず、若く、希望に溢れていたアメリカ。アメリカの人々があの時代へ思いをはせるのは理解できる。

 「ブラック・ケネディ」。タイトルはそう謳おうと、彼とオバマには決定的な相違点がある。彼には大恐慌時代の株の売り抜けなどを契機に材をなした父親がいた。その財力を背景に英国大使に就任するなど、すでにワシントンのインサイダー、政治的な貴族としても地位を得ていた。

 一方でオバマは全く違う。奴隷としてアメリカにやってきたわけではないが、父親はイスラム教徒のケニア人。カンザス州出身の白人の母親との間に生まれ、幼くして両親の離婚も体験している。父親と一緒に写った写真は一枚しかないという。母親の再婚で、次に暮らしたのはインドネシアのジャカルタ。やがて母方の祖母の住むハワイに移るが、そこで孤独な青年時代を過ごす。自伝でも告白されているが、ハイスクール時代には一歩、間違うと、麻薬ジャンキー寸前だった。

 やがて彼はアメリカ本土に一人で向かい、ニューヨーク州のコロンビア大学に編入学、1983年に同大学を卒業後、ニューヨークでの出版社勤務などを経て、1年後にイリノイ州シカゴに転居する。シカゴにはアメリカでも最大規模のアフリカ系アメリカ人のコミュニティーがある。地域振興事業のリーダーとして3年間従事、職業訓練支援などを行った。今に至るオバマはこの時期に形成されたのかもしれない。

 1988年にはハーバード大学ロースクールに入学、1990年2月にはアフリカ系として史上初の「ハーバード・ロー・レビュー」の編集長を務めた。やがて再び、シカゴに戻り、有権者登録活動に関わった後、弁護士として法律事務所に勤務する傍らシカゴ大学ロースクール講師として合衆国憲法を1992年から2004年まで講じていた。この間、1992年、シカゴの弁護士事務所で知り合ったミシェル・ロビンソンと結婚した。




 地道な活動を続けてもアフリカ系アメリカンの生活は変えられれないのではないか。そう考えたに違いない彼は、政治家への転進を計る。1996年にイリノイ州議会上院の議員に選出され、2004年1月まで務めたが、2000年には連邦議会下院議員選挙に出馬し、落選している。その際に、オバマの対抗馬となったのは同じ民主党員で、クリントンの支持も取り付けたアフリカ系アメリカンの政治家だった。その人物はオバマを「黒人らしくない」と徹底的に批判した。

 本書は、そんなオバマがイリノイ州の州都、スプリングフィールドで大統領選への立候補宣言をする場面から始まる。舞台は旧議事堂。1858年、第16代大統領のリンカーンが南北戦争で分裂したアメリカに和解を呼びかける名演説をした場所だった。

 オバマとはどんな人物なのだろうか。強いリーダーシップが語られるが、その本質は調整型なのではないだろうか。自らの中に内在する「黒」と「白」という分裂、そして少年期、青年期に出会った多様性をも自らの中で見事にバランスをとっている。

 予備選、大統領選の過程で、オバマの経歴がさまざまな語られたが、それを知ると、決して彗星のように登場したのではない。2000年に連邦議会下院議員選挙で落選した前後から、今後も彼の政権中枢を担うスタッフたちと戦略的な活動を続けていた。オバマがいつ大統領を目指してのかは定かではないが、すでに1996年にイリノイ州議会上院の議員に選出された時点から想定していたのではないだろうか。本書では、そんなオバマ戦略も
語られている。

 J・F・ケネディ暗殺後、兄の遺志をついだロバート・ケネディは大統領予備選に際して積極的にアフリカ系アメリカンのコミュニティーに通い、彼らと身近に接した。暗殺の恐怖感はないのか、その映像を観る方が驚くほど、身近に接していた。ケネディ(家)は、我々の見方だ。多くのアフリカ系アメリカンがそう感じたとしても、そこにはやはり越えられない壁があったのではないか。オバマはそれを易々と越えた。

 「ブラック・ケネディ」。このタイトルこそが彼の多様性を表現している。アフリカ系アメリカンにとっては、初めて現れた彼らのケネディであり、多くの白人にとっては、かつて希望の象徴であったケネディの再来なのに違いない。

 オバマは大統領となるだろう。それでも、彼に課せられた課題は余りにも広範囲に渡り、果たして解決に至るのかと思うほど、重い。願わくば、この「ブラック・ケネディ」というタイトルに内在する矛盾が表面化せず、ただの「我らのオバマ大統領」として語られる存在となって欲しい。。

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