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『それだからもしある実験法さえ見つかって「ほんとうの考え」と「うその考えを、敵対も憎悪も、それがもたらす殺戮も踏めて人間悪なしに(つまり科学的に)分けることができたら、というのは私の思想にとっても永続的な課題のひとつにほかならない』

 宮沢賢治について書かれた言葉です。私も、普段の生活の中でも、何の気なしに「ほんとう」という言葉は時々、使います。でも、この「ほんとう」には、利害関係を有利にしようとしたり、弱みを隠そうとするなど、どこかに「うそ」が紛れ込んでいるのには薄々、気がついています。自分が気がついているのですから、相手は、とうに気がついているのでしょう。

 成長していく過程で、自分が何者なのか確かめようとしながら、何とか自分自身になろうとします。しかし、不思議なことに自分自身になっていく。言葉をかえれば、思想とまでいかなくとも、自分の考えを強固にすればするほど、自分を狭めているのにも気がつきます。すると、この狭めていくことが憎悪や敵対のかなりの部分、根本的な原因なのではないかと思えてきます。

 毎日、ニュースを見れば、遠く離れたイラクやパレスチナの悲惨な現状を目にします。そこまで大上段に振りかざさなくとも、日々の生活の中で、小さな敵意や嫌悪、そして無視に出会います。

 そんな時、それを回避することはできるのか。「ほんとうの考え」と「うその考え」をわけることはできるのか。

 吉本さんは親鸞の話の中で、「往路」があれば「復路」もあるといっています。自分になろうとすればするほど自分を狭めていると思ったとき、この「復路」と「復路」のことがすっと入ってきました。

 癌を患って、残された時間が短いことを知った人には最初に怒りがやってくる。そして次には苛立ち、やがて受容へと向かうと読んだことがあります。これも一種の「復路」のように思えます。

 「復路」。こんなようにも考えてみたこともあります。60年代後半、高校での出来事。ベトナム戦争反対との思いから、授業の中断を担任に申し出ました。無理な話でした。担任に「ここには教育はない」と吐き捨てるようにいいました。彼から返ってきたのは「そうかもしれないな」との言葉。「ほんとう」の教師になるとしたら、突き詰めていくとすると、それを棄てなければならないのかもしれない。現実の中では、そうはいかないのですが、それは自分にも返ってくる言葉でした。

 そして、この「復路」を辿ることも、「ほんとうの考え」に至るひとつの道筋なのかなとも思います。賢治が見つけようとした「実験の方法」と親鸞の「往路」と「復路」は、どこか深いところで繋がっているように思います。



「宗教やイデオロギーや政治体制などを<信じ込むこと>の、陰惨な敵対の仕方がなければ、人間は相互殺戮にいたるまでの憎悪や対立に踏み込むことはないだろう。それにもかかわらず、それを免れることは誰にもできない。人類はそんな場所にいまも位置している。こうかんがえてくるとわたしには宮沢賢治の言葉がいちばん切実に響いてくるのだった。(略)

 それだからもしある実験法さえ見つかって「ほんとうの考え」と「うその考えを、敵対も憎悪も、それがもたらす殺戮も踏めて人間悪なしに(つまり科学的に)分けることができたら、というのは私の思想にとっても永続的な課題のひとつにほかならない。」
出典:「ほんとうの考え・うその考え」賢治・ヴェイユ・ヨブをめぐって(春秋社)(P3〜4)

「賢治が求めたことでいま何が自分に残っているのかと考えてみます。「銀河鉄道の夜」に登場するブルカニロ博士に賢治が言わせている「ほんとうの考え」と「うその考え」という言葉です。」
「もしおまえがほんとうに勉強して実験でちゃんとほんとうの考えとうその考えとをわけてしまえばその実験の方法さえきまれば信仰も科学と同じようになる。(ジョバンニの切符)」
出典:「ほんとうの考え・うその考え」賢治・ヴェイユ・ヨブをめぐって(春秋社)(P13)

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