top pageliterature>自分で考えたこと(5)>Back Number











『死の恐怖というのは何かといったら、生の恐怖なんですね』

 吉本さんは、著書の中で、このことを繰り返し書いています。特に「心とは何か-心的現状論入門」(2001年6月弓立社刊)では、このことに関する考えがまとめられています。

 個人的には、自分の中にしまわれている「母親との関わり」を、とことんまで掘り出す機会にはっきりと遭遇したことがないので、ここで語られているような死の恐怖(生の恐怖)までは実感してはいません。

 飛躍があると思うのですが、言葉を代えていうと、私の場合は、生の恐怖とは、関係の恐怖、関係の不安定さや移ろいやすさの恐怖として現れているようなのです。

 そして、関係の恐怖として考えてみると、どうしても、「無意識の組み合わせがよければ好きになること」に拘ってしまうのです。似たような育ち方をしたから好きになるというほど、単純なものではないと思うのですが、敢えていうならば、この「無意識の組み合わせがよければ」とは、関係の恐怖(生の恐怖)が似ていると好きになる、と言い換えられると思っています。

 人と人との関係、男女の関係はいまだによく分からず、不可思議です。お互いに欠落を埋めようとすれば、反対に過剰が生まれます。そこで高校生の時にこんなことを考えました。

「見つめ合っても駄目だったらどうしよう」「その人が空の星を見つめていたとしよう」「その人の瞳には星が映っている」「瞳の中の星を僕が見つけられて、その星と僕の像が重なればやっていけもかもしれない」

 若気の至りの甘っちょろい話しですが、まだ、その思いはなくなりません。欠落を埋めるのではなく、そのままでよいから、同じ方向を向いて歩いている。そんな感覚です。



「死の恐怖というのは何かといったら、生の恐怖なんですね。生の恐怖というのは、母親のおなかの中にいるときから形成されるんです。いろいろなことをちゃんと感じたりできるようになった、妊娠七、八ヶ月ころから一歳未満まで、主として母親との間で、面白くない育ち方をさせられたとかいうことがあったとします。死の恐怖というのは、ひとつの原因はそれなんですよ。」

出典:「幸福論」((青春出版社)(P29)

前回< >次回





Copyright (C) 2012 Archinet Japan. All rights reserved.