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『ついでにいうと、夏目漱石が自分の小説の中で"理想の女性"として描いているのは、「虞美人草」の「糸子」ですね。「糸子」は、知識や教養はそこそこで、どこか人の陰に隠れている、というふうな女性です。それが、漱石の"理想の女性"なんです。』


 もう一度、「虞美人草」を読みました。これもとてもよくわかりました。私が気がついたキーワードは「どこか人の陰に隠れている」でした。

 そしてここでは、男性側から女性への「片思い」という距離感と、その女性側からの「陰に隠れている」という男性への距離感の取り方が等価だと、理想ということになるのかなとも思いました。でも、実際にこんな女性はいないな、やっぱり男の側からの一方的な思いこみだな、という思いもあります。

 吉本さんは、「心とは何か-心的現状論入門」の中で、被害妄想とか、恋愛(関係)妄想とかで、吉本さんを訪ねてくる人の多くが、特質として「受け身」である、といっています。そう考えると、私も似たようなものなのかもしれず、この「受け身」という感じもとてもよくわかります。この「どこか人の陰に隠れている」は「受け身」というキーワードにも繋がるように思います。

 「受け身」ということは、なかなか一言でいえませんが、しいて結びつけると、こんなことかなと思いました。

 吉本さんは、「日本詩人選-源実朝」(1973年筑摩書房刊)の中で、源実朝のことを「政治的な対立など全てがわかっていても、のほほんとしている人」というようにいっています。ある種、典型的に「受け身」の人物として捉えていると思うのです。

 漱石さんも受け身だったから、ますます奥さんは悪妻になっていった。太宰さんも受け身だったから、背負い込まなくてもいいものも背負い込んでしまった。そんなふうにも思えます。

 この「受け身」という特質は、きっと母親から受けた傷を、なんとかしようとしてもがいているうちに、文学を生んでしまったということに結びつくように思います。また、もしかすると、その性のあり方が精神的、心理的であるという男性一般の特性のようにも思うのです。



「ついでにいうと、夏目漱石が自分の小説の中で"理想の女性"として描いているのは、「虞美人草」の「糸子」ですね。「糸子」は、知識や教養はそこそこで、どこか人の陰に隠れている、というふうな女性です。それが、漱石の"理想の女性"なんです。」

出典:「超「20世紀論」(上)(アスキー)(P85)』
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