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『前提に家族とか男女の関係があってという次元じゃなく、もっと本質的に考えると<ただ単独の人>が、人間同士、連帯感を持ちうるのかどうかってこと、それがゲイっていうものの本質的な課題なんだ。』


 青春期には、思い出すだけでも気恥ずかしくもあるのですが、「親友」は何人かはできました。とりとめもなく、夜中に話をしているうちに、一緒に幻視や幻聴を体験したこともありました。そういう関係の距離には、どこかで同性愛的な部分もあったように思います。

 そんな関係のあり方を、あの太宰は皮肉も込めて、「純粋ごっこ」といったそうですが、うまいことをいうものです。確かに「純粋ごっと」をやっていたのでしよう。

 その友達とは、長い間、会わなくとも、顔を合わせると、その時の感じが少しだけ戻ってきます。それでも、家庭をもち、仕事をして、社会的に生きていく中では、なかなかそういう関係はできませんでした。それは青春期にだけ社会性をほとんど排除した「純粋ごっこ」の関係が成立するからでしょう。社会に出た後には、友達なんていないな、一人なんだな、自分と話している以外ないんだなと、思うこともあります。

 それであるからこそ、誰かと結びつきたいという気持ちは強くあります。フーコーがいった「<ただ単独の人>が、人間同士、連帯感を持ちうるのかどうかってこと」という言葉にはとても惹かれるものがあります。

 吉本さんは「一人で立ってられないから手を繋ぐというのは嘘だ」ともいっています。単独の人となる。単独であること。そのことによって、「人間同士、連帯感を持ちうるかどうかと言う課題」に直面するとき、その課題は、ゲイの人達だけでなくて、単独であるものとしての私たち共通の課題でもあるように思います。



「ゲイだとかレズだとかっていうことの本質的な意味は何だっていうことになるんですが、つまり、フーコーは「前提に家族とか男女の関係があってという次元じゃなく、もっと本質的に考えると<ただ単独の人>が、人間同士、連帯感を持ちうるのかどうかってこと、それがゲイっていうものの本質的な課題なんだ」っていうふうに答えてるんですよ。こう言われたら、その問題についてちょっと推測だけで言ってるヤツとかは、言うことなんかなくなっちゃいますよ。」

出典:「悪人正機」(朝日出版社)(P189〜190)
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