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『ある人が亡くなって、「おまえのとこの猫が死んだときとどっちが悲しいか」と言われたら、こっちが悲しいですよ。』


 シモーヌ・ヴェイユ。その生涯を読み解くと、痛切な思いだけが重く残ります。そんなことをする必然もないのに、自分から進んで工場の中に入り込み、苛酷な状況の労働者達と働きました。啓蒙によって彼らを目覚めさせ、救済してあげたい。そこでは、ギリシャ悲劇などを一緒に演じようとしたそうです。きっと、こいつは変な奴だと思われたはずです。吉本さんは「厳しい労働に疲れると、人はかえって従順になってしまう」残酷な現実をヴェイユが知ったと書いています。

 そこには「傲慢さが忍び込んでいるのかもしれない」とヴェイユが理解する以前の厳しい状況があったのでしょう。それでも、自分の切実さをもって、何かを越えてしまう彼女にはやはり痛切さを感じます。

 吉本さんは自宅の飼い猫のことを例に出して、「親しくしてはなかった誰かの死よりも、自分の家のネコの死の方が悲しいということも起こる」といっています。人はそうできているのだとしても、「それでも人間とネコでは違うだろ」ということもあって少しは後ろめたいのかもしれないとも。

 確かに、優しささえも対象を選ぶという不可思議な心の動きをするのが人間です。少しばかりの後ろめたさを感じながら。

 そのことと関連して、吉本さんは、ヴェイユが「痛切さとか、切実さとか、哀しみとか、不幸とか、愛とか、哀れみとか、恩寵とかと、どこかで混同しているというか、おなじだと思っているところがあるから、なんとなく赦されているんだとおもうんです」と書いてします。

 そしてヴェイユの場合は「そう言ったっていいじゃないかと肯定されたような気がするんです」とも言っています。この肯定されたような気がする。なんとなく赦されているんだという感じ。そうなふうにヴェイユが思わせることと、ヴェイユが切実さをもって突っ込んでいくというか、普通の人では越えられないものを易々と越えていくということはとても深い関係があるように思します。



「ただヴェイユの考え方には救いというのがあるんです。神の愛と、切実さとか痛切さとがおなじなんだとおもっているところがあります。たとえば僕の家に猫が5匹するんです。その猫が死んじゃったとするでしょう。そのとき痛切さがあるとおもうんです。ある人が亡くなって、「おまえのとこの猫が死んだときとどっちが悲しいか」と言われたら、こっちが悲しいですよ。なぜそんなことが起こるんだろうか。こっちは動物で、そっちは人じゃないか。それは、痛切さとか、切実さとか、哀しみとか、不幸とか、愛とか、哀れみとか、恩寵とかと、どこかで混同しているというか、おなじだと思っているところがあるから、なんとなく赦されているんだとおもうんです。だから、そう言ったっていいじゃないかと肯定されたような気がするんです。ヴェイユのばあい、それがあるんじゃないかとおもうんです。」

出典:「ほんとうの考え・うその考え」賢治・ヴェイユ・ヨブをめぐって(春秋社)(P107〜108)
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