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「もともと人間の大部分の振舞いは、善でもなければ悪でもないことから出来あがっている。だから大部分の人たちは、じぶんを善でもなければ悪でもない存在だとみなすことで、健常さを維持している。だが太宰にはそう考えられなかった。」


 2009年は、太宰治の生誕100年、さまざまなメディアで彼が取り上げられていました。もう一度、彼の作品のいくつかを読み返しています。その中に「この「走れメロス」もあります。

 この「人間は善でなければ悪でなるほかない存在のようにおもい込まれていた」という言葉を読んだときに、私が「走れメロス」に薄々は感じていて、はっきりと掴めなかったものが目の前に現れました。確かに、こういう痛切な突き詰め方は、大部分の私たちには無縁のものです。そして、そんな大部分の一人である私は、かつて10代後半に、「走れメロス」を読んだときの、どこからくるのは定かではない違和感を思い出しました。

 「走れメロス」。自分も、回りの多くのものを見渡しても、こんな夢のような話が現実にあるわけはないと思っていました。また、教科書で読んだことも、そんな思いの背景にあったでしょう。太宰の作品をいくつか読んでいたので、教科書で推薦するような単なる美談ではないはずだ、教訓めかして教科書なんかに載せるなよ、とも思っていました。

 「人間は善でなければ悪であるほかない存在のように思いこまれていた」ことからこの作品が生まれたとすると、太宰は当然のように本気で、自らは善(または悪)になろうとしていたのではないか。それを、まずは自分の異として真っ先に突き詰めるために「走れろロス」を書いたのではないか。

 その時に、大部分の私たちに「善でなければ悪であるほかない存在」であることを、無理は承知でもやっぱり切実に理解して欲しいとは考えていたのでしょうか。そのことを伝えようと思っていたのでしょうか。彼はそんな「説教」めかしたことはしていないと思います。きっと自分のためにだけ書いたはずです。

 教科書で取り上げられているのですから、やはり、どこからか、それが御上なのかはさておき、善でありなさいといわれているように思います。でも、そうはいかないよという幼い直感は、それ程、的はずれではなかったはずです。もう少しいうならば、人は善を行おうとしても、それが悪になる。悪を行ってしまっても、それが善になってしまう。そういう致し方ない存在です。

 そんな人の本姓からすると、太宰の突き詰め方には土台、無理があった。さらにいうと、吉本さんに「じぶんを善でもなければ悪でもない存在だとみなすことで、健常さを維持している」といわれてしまうと、その健常さは、ようやく保っているものであり、それを薄々、感じる違和感として思い起こさせる程、「走れメロス」は恐ろしく、とても教科書には載せられない作品だとも思えてきます。



「もともと人間の大部分の振舞いは、善でもなければ悪でもないことから出来あがっている。だから大部分の人たちは、じぶんを善でもなければ悪でもない存在だとみなすことで、健常さを維持している。だが太宰にはそう考えられなかった。人間は善でなければ悪であるほかない存在のようにおもい込まれていた。それを修正しようとして一所懸命つとめはじめ、倫理に敏感になっていた例が、この作品の書かれた時期だとおもう。」

「読書の方法--なにを、どう読むか(光文社)(P224〜225)」

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