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『トム・ケイリン監督 来日記者会見』
監督:# トム・ケイリン
キャスト: ジュリアン・ムーア、スティーヴン・ディレイン、エディ・レッドメイン、エレナ・アナヤ、ウナックス・ウガルデ、ベレン・ルエダ、ヒュー・ダンシーなど
会場:2008年4月18日(金)16時からBunkamuraオーチャードホール内ビュッフェ
2008年初夏公開
公式サイト:
美しすぎる母

Q:「美しすぎる母」を監督しようと思った最大の理由は何ですか?以前、監督された「恍惚」もそうでしたが、本作も最後には殺人に至ってしまう"タブー"の愛の物語です。なぜでしょう?
▼「来日記者会見

T:プロデューサーのクリスティーン・ヴァションが、何年も前にナタリー・ロビンズとスティーヴン・M・L・アロンソンが書いた原作"Savage Grace"を読むようにくれました。ベークランド一族の物語の核心にある真実に衝撃を受けました。物語の持つ、古典的な悲劇の要素に釘付けになったんです。優美さと暴力性という相反する組合せを持ち、悲劇的で美しかった。
 でも映画中では恐ろしいクライマックスとして描かれているバーバラの死は、彼女の物語のほんの一部分でしかない。彼女のいかにもアメリカ人らしいキャラクター(生まれながらにギャンブラー気質で、自力でのし上がろうとする1940年代の女性)や、きらめく栄光と破滅的な落ちぶれ方には、優れたドラマの要素が含まれていた。「美しすぎる母」では、まず核心にある謎について考えました。「母親を殺したのは息子トニーの責任なのか? それとも実質的にはバーバラが、歪んだナルシズムでトニーに自分を殺すようにしむけたのか?」

Q:映画は、社会の風潮や人々の意識が絶えず移り変わった不安定な時代を股に掛けて壮大に描かれています。原作の脚色をどのように進め、構築したのですか? その結果、原作とは異なったものになったと思いますか?

T:脚本家のハワード・A・ロッドマンと素晴らしいコラボレーションをしました。我々共通の意見は、原作はあまりにも幅広く描かれているので、そのままシンプルに脚色するのは無理だという事でした。(原作はベークランド一族を目撃、もしくは関係した人物達の1人称で書かれており、その期間はほぼ1世紀に及ぶ)ハワードと私はそれぞれ、バーバラの物語の中から主要な出来事を5つ挙げることにした。あとでその結果を突き合わせてみると、ほとんど一致したんです。大局では、我々の問題は何をスクリーンから外すか、そして登場人物たちの人生における顕著なターニング・ポイントを軸に、どのように話を組み立てるかでした。

Q:バーバラ役にジュリアン・ムーアを起用したのはなぜですか?

T:トッド・ヘインズが「SAFE」を撮った時、ジュリアンと少しだけ顔を合わせ、後に「エデンより彼方に」の撮影で再会しました。彼女は今の俳優の中で最も才能がある一人だし、大変幅広く複雑な演技ができる。彼女なら記憶に残るバーバラを演じ、また役に必要な人間臭さや感情的深みを伝えられると直観したんです。台本を送り、すぐに会ってランチをしました。私が持参したバーバラやトニー、そしてブルックスの写真資料を彼女が見ている間、緊張して喋りまくりました。彼女の外見はバーバラそっくりと言ってよかった。といっても、それはおまけのボーナスみたいなもので、バーバラのちょっとした仕種に隠された感情を表現できたのは、ジュリアンの才能のおかげです。このキャラクターを、時代の変遷を追って描けたこと、ジュリアンが栄光と衰退という人生の波を表現してくれたこと、どちらにも興奮させられました。

Q:ブルックスはバーバラを軽蔑し、嫌気がさしていたにも関わらず、二人の間にはまだ引き合う力があったのでしょうか? 彼等の関係はサディスティックではありませんか? 何が結婚をひどいものに変えたのでしょう?

T:この極端に正反対な性格同士の結婚において、あらゆる意味でブルックスの方が弱かった。彼は彼なりのやり方でバーバラを愛したが、彼女の暴力的性質を扱うには、力量不足だった。彼がバーバラを嫌いになった理由は、彼女がすんなり上流階級に馴染んでしまったからで、彼自身が成し遂げられないことを達成してしまったために彼女を責めたのだ、と私は思っている。
 バーバラの自殺未遂の後、ブルックスは友人に手紙を書いている。
 「バーバラは、私との間にあったロマンティックな(大してロマンティックでもなかったが)暴力性をほとんど使いきってしまった...。彼女の、何もかも力づくで思い通りにしたいという強い願望は、大小問わず全ての物事に対して実行され、ウェイターから総理大臣にいたるまで対象にされた。そして私はそれと25年間も絶えまなくつきあわねばならなかったのだよ...。でもそれがメロドラマの限界さ。第1幕ですっかりネタ切れだ。
 彼女は何かと言うと(それが社会的に効果を生む場合には)カトリック教徒として生まれ育ったのだと訴える。彼女に必要なのは自己分析だ。ただし精神科医のもとではなくアイルランド系牧師のもとで。古き良き道徳的教えを元に、「どう思うんだい?」と聞いてくれる牧師だ。ハリウッド以降は、ずっと中身のない見せ物のような人生だったのさ。もちろん私も片棒かついでしまったわけだが」

Q:トニーがホモセクシュアルであることに関して、バーバラとブルックスはどう感じていたと思いますか? 当時はデリケートな問題だったわけですが、バーバラの態度はずっと、肯定も否定もしていないように見えますが...。

T:人によっては、「ホモセクシュアリティから救い出すために」バーバラはトニーと寝たと考えられているが、私は真実はもっと微妙で複雑だと思う。トニーの性的志向は、依存と傷つけあいの儀式とも思える彼等の関係における一つの要素に過ぎなかった。ブルックスは明らかに、トニーがホモセクシュアルであることを受け付けなかったし、自分の人生が失敗した根源とさえ思っていた。バーバラの態度はしかし、もっと両義的なものだった。(トニーの恋人)ジェイクが肉欲的誘惑に長け、トニーを虜にしたことを嫌っていたが、ブルックスのように息子を見捨てたりしなかった。
 後に、彼女はロンドンでのトニーの退廃的な友人達を認めなかったし、息子が何日も行方をくらませた時には耐え難く思った。彼女はバスタブのシーンでこう言う。「待ちぼうけの午後ね」。この時の彼女の嫉妬は、ナルシズムのせいでさらに燃え上がったと思う。

Q:描かれているのは上流社会という特殊な環境の話ですが、ある意味でこの映画は社会問題を扱っていると言えるでしょうか? ベークランド家は、ある種のモラルが崩れてしまっても許される環境であったために退廃的なのだと思いますか?

T:ブルックスの祖父レオは、孫がいずれ陥るジレンマを予見するかのようにこう書いている:
 「旅している人間は、自分は楽しんでいる、と思い込もうとするものだ。しかし実際にはただ右へ左へと出費を重ねるだけで、大した満足を得られない。あるいはこの国からあの国へと忙しく移動しながら、幸福を求めて空しく動き回っているだけである。そういう人間は、大抵最後はどこかヨーロッパの大都市2、3箇所の中から落ち着き場所を見つけて、さんざん苦労してホテルの部屋をとり、精神的には参っているのに、ここが自分にとってベストの場所だなどと言うようになる」
星ヨーロッパでの家族との自動車旅行にて。レオ・H・ベークランド、1907年

Q:トニーが精神的に患い始めていることに、両親はひどく鈍感です。彼等は単に見ないようにしていたのでしょうか、それとも、あまりにも利己的だったということでしょうか?

T:トニーの晩年には、多くの関係者が仲裁に入ろうとしたが、ほとんど効果はなかった。ベークランド家のある友人は、あの殺人が起こる前年にブルックスにこう突き付けた。
「私は言った。「見たまえ、君の息子のひどい状態を、彼には治療が必要だ」。するとブルックスは「おもしろいじゃないか。ゲームみたいなもんだ」。それが彼の言葉だった」
T:このようにエスカレートしていく「ゲームのお楽しみ」の繰り返しは、最初ブルックスとバーバラの間で、やがてトニーをも巻き込んで行われ、結局全員にとんでもない犠牲をもたらした。他にいくらでも手立てはあったのに、それに気づくことなく、彼等の人格は極度のひずみによって曲がってしまった。彼等はそれぞれが大人になる事なく子供のまま人生を送った。またこの話には、当事者各個人に責任があるのか、または遺伝や育てられ方のせいで自己破滅的性質になったのか、という微妙な問題が含まれている。
 トニーがかつて持っていた魅惑的で詩的な人格は次第に崩壊し、バーバラに対する怒りを膨らませて暴力的になっていった。皮肉なことに、ブロードムーア病院に精神病患者として入っている時、彼は仏教に出会って慰めを見出した:
「僕の周りにママの存在を感じる、いつも。彼女はどの樹木の中にも存在している」
とはいえ、人生の最後には、トニーは暴力的な思考や夢に取りつかれた:「それからバーバラが僕の首の後ろを切り開いたので、僕は呼吸できるようになった」

(C) Lace Curtain, Monfort Producciones and Celluloid Dreams Production.





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