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 君の涙 ドナウに流れ ハンガリー1956(Szabadsag, Szerelem/Children Of Glory) 。ハンガリー語でSzabadsag, Szerelemは愛、自由。

 1956年のハンガリー動乱とその数週間後に起きたオリンピックでソ連との間で闘われた水球の試合"メルボルンの流血戦"という2つの史実を背景に、歴史と政治に翻弄されながらも最後まで自由を求めて闘った若者たちの愛と悲劇の物語。本作が長編2作目のハンガリーの新鋭、女性監督のクリスティナ・ゴダ。

 物語は、ソ連の支配下にあった1956年のハンガリーの首都ブダペスト。

 独裁的な共産主義政権に対する市民の不満は募り、学生を中心に自由を求める声は日増しに高まっていた。そんな動きを傍観者としてみていた水球のオリンピック選手カルチは、女性闘士ヴィキの姿に目を奪われる。

 そして、10月23日、オリンピック合宿が始まる予定だったカルチは、街でデモ隊を導くヴィキのヴィキの後を追う。デモが激しい銃撃戦へと発展していく中、一度は合宿に合流したものの、傍観者ではいられなくなり、カルチは、再びヴィキと共に、闘争の最前線へと身を投じていく。

 2007年11月17日より新装なったシネカノン有楽町2丁目ほか全国順次ロードショー。




 ベルリンの壁が思想の産物であったが故に、その思想の有効性が失われた途端、いともあっけなく崩壊したように、国家も、そこに暮らす人々の生活をより良いものとするための機能であるのに、多くが強圧的な統治の根元となっている。

 インターネットの発展により瞬時に世界を駆けめぐったミャンマー軍事政権によるビルマの人々への弾圧と日本人ジャーナリストの殺人。政権維持のために非常事態を宣言し、民主的な選挙の日程を曖昧にしているパキスタン政府。それをテロへの闘いへの共犯者としてダブルスタンダードで擁護しているブッシュ政権。世界のあちこちで血なまぐさい紛争が続いている。

 それでも自由を希求する人々の闘いは決して終わらない。1956年のハンガリー動乱は、ソ連邦が決して人民の味方でないことを世界に明らかにした。それはやがて1968年の世界的な学生を中心とする異議申し立てへと続き、1980年には、ポーランドで労組連帯による民主化への運動が起こった。それらはやがてベルリンの壁とソ連邦の崩壊、東欧の民主化への萌芽となった。

 ヨーロッパは試行錯誤を続け、経済的には国境をなくし、統合へと向かっている。それでも新たな問題も顕在化している。ポーランドでは民族主義的な政権が国民を煽っている。ドイツでは東と西の経済格差が解消されず、その不満はネオナチの台頭を許している。

 ひとつの希望としてヨーロッパの試行錯誤は意味あるはずだ。そこに至る過程で、この作品に登場したような無名の人々の闘いがあり、彼らの貴重な血と涙がドナウを流れたからだ。答えは出でいる。国家を限りなく開けばよい。それなのに、哀しいかな私たちはまだ発展過程にあるのだろう。決して国家を無条件で信用してはならない。彼らの許容する限界を超えて、異議申し立てをすれば、その牙をむき出しにしてくる。




 オリンピック行きが決まっている水球選手のカルチは、国家のエリートだ。金メダルを目ざし、厳しい練習に耐え、その間隙をぬって女の子を追いかけている。そのまま何事も起こらなければエリートとしての恵まれた生活が待っていた。

 オリンピック前に彼ら水球チームはソ連に遠征する。全くのアウェー状態。ハンガリーを衛星国のひとつとしてしか見ていない観客の中で、ソ連の選手は汚い反則を繰り返す。それでも審判は公正な判定を下さない。怒りを抑えられないカルチは、審判にボールを投げつける。そして、ロッカールームでソ連選手と殴り合ってしまう。

 ブタペストに着くと、黒塗りの車から男が降りてくる。大臣が待っているという。しかし彼が連れて行かれたのは秘密警察だった。廊下の両側には監房が連なり、捕らえられた人々が拷問されていた。奥まった部屋に通されると、そこにはフェリおじさんと名乗る秘密警察の責任者の男がいた。

 「何か飲むかね」「本物のコカコーラもあるぞ」....。やがてその男はソ連選手と殴り合っ際にカルチが彼らを罵った言葉を叱責した。全て知っていたのだ。幼いカルチの弟の名前も挙げ、今後、一切、ソ連には逆らうなと恫喝する。

 カルチが友人のイミに会いに大学に行くと、そこでは体制側の学生がプロパガンダを声高に語っていた。

 最初、学生は静かに聞いていたが、一人の女性が立ち上がり、反論し始めた。ヴィキだった。カルチは彼女の稟とした美しさに見とれてしまう。

 民主化を目指す学生は新たな学生組織を立ち上げ、街に出て民衆にビラを配り、デモへの参加を要請する。その中心にヴィキがいるのをカルチは見かける。

 何とか彼女の近づこうとするカルチ。ヴィキは「水球の練習に行けば...」と取り合わない。それでもヴィキと一緒にいたいカルチは、友人が止めるのにもかまわずヴィキと共に街に出て、民衆と共に歩き始める。ここから二人の運命は大きく歴史に翻弄されることになる。




 最初は平和的に行われていたデモ行進だったが、権力側はソ連の意向も無視できなくなり、予告もなく、デモの隊列に向かって発砲する。カルチはヴィキと連れだって、その場を逃げ出す。ようやくヴィキの家にたどり着く。疲れ果てたヴィキは、今は一人でいたくないと初めて弱音をはいた。カルチは静かにヴィキを抱きしめていた。

 ラジオからは権力側のニュースが流されていた。やがて学生と民衆は武装を始める。すでに街のあちこちでは銃撃戦が繰り広げられていた。ハンガリーに駐留するソ連軍は大量の戦車を出動させ、建物の屋上からは機関銃の銃弾が無差別に浴びせられている。

 夜になると夜間外出禁止令が出され、銃撃戦も小康状態となり、カルチは自宅にヴィキを連れて行く。二人が銃を持っているのを知ったカルチの母親は、心配そうに二人を見つめていた。

 その晩、ヴィキは泊まることになった。カルチの部屋に行くと、そこには水球の試合で彼が手にしたメダルが飾ってあった。メダルを手にするヴィキ。彼女もカルチにとってどれだけ水球が大切なのか理解する。見つめ合う二人。突然、思い詰めたように、秘密警察に捕まった両親を解放するからと抱かれたとヴィキが話し始める。
 「私を嫌になったでしょ」....。彼女の哀しみと闘いへの思いを理解し始めたカルチは彼女に優しくキスをし、その夜、二人は結ばれた。

 翌朝、ヴィキはカルチの母親と二人になる。母親はカルチの水球への情熱をヴィキに語った。それを聞いた彼女はカルチの銃も手にして、一人で家を出ていく。

 どうして彼女を一人で帰らせたのかと怒ったカルチは街に飛び出す。その段階で学生と民衆はラジオ局の占拠を試みていた。ラジオ局を空け渡す約束をした秘密警察は、それを裏切り、交渉団を監禁してしまう。それに怒った学生が交渉団の解放を要求すると、秘密警察は突然、彼らに向けて銃撃を始める。その銃弾に倒れた友人イミはその場で命を落とした。

 イミがこの手の中で命を落とした。怒りに震えたカルチは、ヴィキと行動を共にする決意をする。彼らの作戦本部には続々と銃器が集められていた。

 老人たちは食料を差し入れ、子供たちも手製の火炎瓶を作っている。戦車にその火炎瓶で対抗するためだ。やがて本格的な市街戦の様相を呈していく。




 この事態を収拾しようと権力側は、ソ連軍は撤退するとニセ情報を流し始める。学生と民衆はつかの間の勝利を喜んでいる。ようやくメルボルン・オリンピックに行ける。カルチは水球チームに戻ることを決め、再会を約束して別れる。

 その時、彼女は、カルチに十字架のネットレスを渡した。カルチが渡したのは彼の手に巻かれていた「幸運の時計」だった。群衆の中に消えていくヴィキをカルチは振り返り、探していた。二度と会えない別れになるとも知らずに...。

 水球チームを乗せたバスは、国境を越え、プラハに向かっていた。深夜、バスの中で寝ているカルチの耳に恐ろしげな轟音が聞こえてきた。窓の外を見ると、再び、ブタペストに引き返すソ連の戦車群だった。バスを降り、戻ろうとするカルチ。選手の一人が彼を殴り、失神させる。

 メルボルンについて水球チームは勝ち続けていた。それでもテレビからは故郷の街の惨劇が映し出されていた。チームの殆どは、亡命を決めていた。それでもヴィキのもとへ帰ろうとするカルチ。チームの一人はカルチに語りかける。「これが祖国といえるのか?」と。

 チームの誰もがやる気をなくし、ウィスキーのビンを煽っていた。監督が次の試合でソ連と対戦すると告げた。ハンガリーが生きていることを世界に思いさらせてやろうではないかと。全員がすぐにプールに戻った。

 ソ連との試合を迎え、ロッカーで待っていると、ハンガリー・チームを応援する歓声が聞こえてくる。勇気を奮い起こした彼らは、前の試合での因縁を晴らすため、全力でプレイする。今度は審判も公正だ。そして彼らはソ連に勝利する。

 その頃、圧倒的な武力に敗れた学生と民衆の組織的な抵抗は終わっていた。街を逃げまどっていたヴィキも逮捕され、秘密警察に連行される。

 彼女の前に現れたのはフェリおじさんだった。彼は仲間の名前を紙に書けと恫喝する。それにヴィキが応じないとみるや、妻が作った昼食だと、ヴィキの懐柔を始める。
 そして「共通の取り合いがいるね」と取りだしたのは、彼女から奪ったあの「幸福の時計」だった。

 彼女は紙に何か書き始める。それを受け取った彼は顔色を変え、ヴィキを殴る。そこには「フェリおじさん」と記されていた。

 独房から連れ出されたヴィキ。後ろ手で縛られた手には、あの時計が握られていた。他の監房からは神のご加護をとの声が聞こえてくる。何かを予感し、悟ったような表情のヴィキはあの時計を握りしめ、廊下を歩いていった。ハンガリーの受難を称える歌声を聞きながら。




 試写会を終わり、外に出ると、11月の東京は寒さの季節を迎え、遠くには東京駅近辺の高層ビルの灯りが見えた。スクリーンから聞こえた銃声が耳の奥底に残っている。こんなにも平和な東京。

 駅に向かって歩いていると、試写会帰りの人々の話し声が聞こえてきた。「ソ連が悪物ってことだね」「ナショナリズムの容認になるのかな」...。

 少し違うように思った。この作品に現代的に意味を持たせるならば、冷静になる必要もある。製作者側も、偏執的なナショナリズムを煽り、人々の分断を意図していないはずだからだ。

 誰もがたったひとつの人生しか生きられない。決して容認できないし、誤謬も明らかとなったが、ブタペストの学生や民衆に銃を向けたソ連兵士も、秘密警察の隊員も、正しいと信じたある理念に導かれていた。あちら側とこちら側。誰もが自身の立ち位置を選択せざるを得ない時がある。それでも東ドイツの秘密警察の実態が明らかとなり、幾多の苦痛を伴いながら、和解への道を模索しているように、ハンガリーでも、皆が歴史の傷を癒そうとしている。

 ハンガリー人はマジャール人と称されている。ヨーロッパの中央に位置し、強国からの長い迫害の歴史を持っている。水球チームが金メダルを獲得したシーンで流れているのはマジャール人の栄光と受難を称える歌だ。その歌は、処刑場へ導かれるヴィキの背後にも流れていた。

 ナショナリズムはやっかいなものだ。自身のアイデンティティを確認する過程では、ナショナリズムは重要な役割を果たす。現在でもスポーツが純粋にスポーツではなく、ナショナリズムの発露とならざるを得ないように。彼ら水球チームもナショナリズムに頼ったように....。
 一方で、自身のアイデンティティを確認する過程を経て、私たちはナショナリズムを越えなければならない。異なるアイデンティティをお互いに認める。それ以外に現代の迷妄を越える方法はないからだ。

 権力は政権維持や外圧への対抗策としてナショナリズムを利用する。今でも至るところでそんな迷妄は人々を苦しめている。それに宗教が荷担し、対立を強めているイスラム教とキリスト教。石油利権も背景にあり、危険な状況にあるトルコとクルド。内部抗争で殺し合いをしているパレスチナと高みの見物のイスラエル政府。気が遠くなる絶望的な思いだ。お互いの迷妄を意識し、えぐり出し、違和するものと通じ合わなければならない。

 その意味で、この作品は、自身のアイデンティティを確認する過程としてのナショナリズムを越え、明日の世代へ架橋をかけようとするハンガリーの人々の今日の闘いを見守っている。
 
 
監督:クリスティナ・ゴダ
製作:アンドリュー・G・ヴァイナ
原案:ジョー・エスターハス
脚本:ジョー・エスターハス、エーヴァ・ガールドシュ、ゲーザ・ベレメーニ、レーカ・ディヴィニ
撮影:ブダ・グヤーシュ
美術:ヤーノシュ・サボルチ
衣装デザイン: ベアトリス・アルナ・パーストル
編集:エーヴァ・ガールドシュ
音楽:ニック・グレニー=スミス

出演:イヴァーン・フェニェー(サボー・カルチ)、カタ・ドボー(ファルク・ヴィキ)、
シャーンドル・チャーニ(ヴァーモシュ・ティビ)、カーロイ・ゲステシ(水球チーム監督)、イルディコー・バンシャーギ(カルチの母)、タマーシュ・ヨルダーン(カルチの祖父)、ペーテル・ホウマン(フェリおじさん)、ヴィクトーリア・サーヴァイ(エステル)、ツェルト・フサール(ヤンチ)、タマーシュ・ケレステシュ(イミ)、ダーニエル・ガーボリ( カルチの弟ヨージ)

2006年/ハンガリー/上映時間120分
配給:シネカノン/宣伝:ムヴィオラ 
後援/ハンガリー大使館
提供/OLC・ライツ・エンタテインメント   
配給/ソニー・ピクチャーズ エンタテインメント
公式ホームページ
http://www.hungary1956-movie.com/

(C) 2006 GIRS KFT,AND FLASHBACK KFT, All Rights Reserved.,

2007.11.14掲載
ショートバス(Short bus)< >バレエ・リュス(Ballets Russes)
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