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 ラフマニノフ ある愛の調べ(原題:Lilacs)。

 セルゲイ・ラフマニノフ。常人には弾きこなせない難曲を生み出し、自ら超絶的な技巧で演奏をなす「ピアノの魔術師」と呼ばれた20世紀最大の作曲家。

 ラフマニノフ(エフゲニー・ツィガノフ)は革命期のロシアからアメリカに亡命し、大きな成功を手に入れたが、やがて作曲に行き詰まり日に日に憔悴してゆく。妻のナタリー(ヴィクトリア・トルストガノヴァ)はそんな夫の姿に心を痛めながら、彼を献身的な支えていく。

 ある日、彼の元に贈り主不明の白いライラックが届けられる。その甘い香りを嗅いだ瞬間、かつて交わした儚くも情熱的な恋の記憶が蘇る。姿を現わさない花の贈り主に次第に心を馳せ始めたラフマニノフの中には、再び一つの旋律が生まれつつあった。

 故郷の地に咲いていたライラック、いつも遊んでいたのは従姉妹のナタリー、池で溺れそうになった時に水面に見えたのも彼女の顔、そして暴力を振るう父の姿を二人はピアノの下から怯えながら見ていた。この映画は妻のナタリーとの関係を大きな主題として進行していく。

 監督のパーヴェル・ルンギンは、1949年、モスクワ生まれ。脚本家として活躍した後、1990年に脚本も手がけたピョートル・マモノフ主演の「タクシー・ブルース」でカンヌ国際映画祭最優秀監督賞を受賞、国際的に注目される。同年、フランスに移り、フランスのプロデューサーたちとロシアでの映画製作を行っている。

 オリジナル・サウンドトラック「ラフマニノフ~ある愛の調べ~」。2008年4月19日から銀座テアトルシネマ他全国順次ロードショー公開。




 少年期のラフマニノフは裕福で音楽的にも恵まれた環境で育った。10歳を迎えた頃、父が破産し、人生は突然、暗転し始める。酒に酔い、暴力を振るう父に愛想をつかした母は離婚を決意する。

 行くあても失ったラフマニノフに救いの手をさしのべたのは厳格な名教授として名高いズヴェレフ(アレクセイ・ペトレンコ)だった。ラフマニノフの才能をひと目で見抜いたズヴェレフは、彼を自宅に住まわせ、精魂込めて指導する。

 譜面通りにピアノをひたすら弾き続けるラフマニノフ。彼は作曲する歓びに目覚めていく。

 ピアニストとしての精進を求めるズヴェレフとの間にも亀裂が入り始めた。そんな彼の心の空白を見透かしたかのように、美しい女性がアンナ(ヴィクトリア・イサコヴァ)現れる。

 社交界で数々の男性と浮き名を流しているので有名な女性。恋愛の機微を知り尽くしたアンナにとって、ラフマニノフをなびかせるのは容易いことだった。彼は教授の目を盗んで、夜な夜な彼女の元に通う。ピアノの練習にも熱が入らない。教授に隠れて彼女に捧げるため「交響曲第1番」を作曲する。

 「交響曲第1番」初演の日を迎える。自信たっぷりなラフマニノフ。演奏が佳境を迎えた時、酒浸りの指揮者は譜面を落とし、演奏は散々なものとなった。批評家は彼を酷評する。落ち目の男に興味がないアンナは彼をいとも簡単に捨て去る。作曲を禁じていた教授とも決裂し、ラフマニノフは愛する女性と住む家を失ってしまう。

 行き場をなくしたラフマニノフは従姉妹のナターシャのところに転がり込む。久し振りに再会した二人。かつての記憶がラフマニノフを癒し始める。
 高名な医師ダール(イーゴリ・チェルニェヴィチ)と婚約中だった彼女。家族はラフマニノフに冷たい視線を送る。愛を失い、音楽からも引き離され荒れ狂うラフマニノフ。あまりの苦悩から卒倒し、気を失ってしまう。そんな彼をナターシャは優しく抱きしめ、耳元で「これからはずっと愛し続け、何があってもあなたを支えていく」と囁いていた。

 音楽家としても、ひとりの人間としても大きな危機を迎えたラフマニノフに救いの手をさしのべたのはダール医師だった。彼はラフマニノフに催眠療法を施した。フラッシュバックのように浮かぶのはナターシャと過ごした幼い日々。二人でピアノの下に隠れた恐怖の体験。それらを再認識し、トラウマから解放されたたラフマニノフは快方へと向かった。

 女子高校の音楽教師の職を得た彼はそこで美しく利発な女子高生マリアンナ(ミリアム・セホン)と恋に落ちる。時代はロシア革命前夜、彼女はマルクスを信奉し、革命を夢みていた。彼女の思想には賛同できない。それでも彼女の純粋な魂と若い肉体の輝きは、ラフマニノフの心に新たな旋律を生み出す力を与えた。

 「ピアノ協奏曲第2番」が完成する。心の声に耳を澄ませたラフマニノフはナターシャの愛に気付き、プロポーズする。反動的な音楽家としての疑いをかけられたラフマニノフを救ったのはマリアンナだった。彼女の手引きで、ラフマニノフらはロシアを脱出できた。




 ニューヨークのカーネギー・ホール。ロシア革命を逃れアメリカに亡命したラフマニノフのニューヨークでの初コンサートが開かれる。その夜、コンサートを聴いた人々は熱狂的な感動に包まれていた。

 コンサートを企画したのは一代でピアノメーカーを立ち上げたスタインウェイ(アレクセイ・コルトネフ)だった。彼にも自社のピアノを世に売り出す思惑があった。経済的な基盤を確保する必要があるのをラフマニノフもわかっていた。航空機もない時代、列車を乗り継ぎ、200日100都市という超人的な全米ツアーを敢行した。

 人々はラフマニノフを行く先々で熱狂的に迎えた。彼は新天地のアメリカでの大成功とは裏腹に日に日に憔悴していく。混乱が続く祖国への望郷の念、新しい曲が生まれない苦しみ。ナターシャは、そんな夫を辛抱強く励まし続ける。

 ある日、ラフマニノフのもとに、贈り主不明のライラックの花束が届く。故郷に咲き乱れていた花。その甘い香りをかいだ瞬間、情熱的な愛の日々が甦った。想いを込めて交響曲を捧げた年上のアンナ。革命に燃える瞳に心を奪われたマリアンナ。そしてナターシャと幼い日を過ごした故郷の風景。それからも、花束は届き続ける。贈り主は誰なのか?

 ラフマニノフは、その花束の送り主を知ることとなる。長い道程を過ごした愛の記憶に導かれるように、ラフマニノフの心に新たな旋律が生まれようとしていた。




 監督のパーヴェル・ルンギンが「これは伝記的な映画ではなく、ラフマニノフの生涯を自由に解釈した愛の物語です」「重要なのは、ラフマニノフの愛、絶望、恐れ、子供時代の思い出――つまり内面世界を描くことなのです」と語っているように、本作はラフマニノフのリアルな伝記映画ではない。

 作中でダール医師がラフマニノフに催眠療法を施すシーンに象徴されるように、他を凌駕する才能を授けられた一人の人物の精神世界へ、どのようアプローチするのかという試みがテーマともなっている。

 ラフマニノフの生涯を支えたナターシャが従姉妹であったことにも、彼の精神世界を解き明かす鍵があるように思う。作中でもアンナとマリアンナとの間での性的な交流は描かれているが、ナターシャはそれとは異なる存在として描かれている。

 幼い時代、いつも一緒の時を過ごし、まるで兄弟のように育った二人。そこで培われたお互いへの信頼は従姉妹という近親性の中で、生々しい性的存在として男女を超えていたのかもしれない。

 ラフマニノフにとって、ナターシャは、ある時は、母であり、姉であり、妻であった。そして何よりも、人生へと船出する前の、幸せな時間を共有した希有の友人でもあった。そんな人生の初期の記憶は、故郷の自然と、そこに咲いていたライラックの香りへと誘われ、ラフマニノフをいつも揺り動かしていた。

 


 超絶的な技巧を必要とする難曲を生み出した20世紀を代表する作曲家。ドから1オクターブ上のソを同時に弾けるほどの巨大な手と卓越したテクニックで自身の曲を完璧に演奏したピアニストでもある。

 最も愛されているのは1901年に発表された「ピアノ協奏曲第2番」。彼の没後も、デヴィッド・リーン監督の名作映画「逢びき」(45)、ビリー・ワイルダー監督、マリリン・モンロー主演の「七年目の浮気」(55)などに使われ、クラシック愛好家以外の人々にも広く知られる。日本では、ドラマ化されたベストセラー・コミック「のだめカンタービレ」で印象的なシーンに使われ、若い層にも浸透、新たなラフマニノフファンを生んだ。映画「シャイン」では、「ピアノ協奏曲第3番」が、世界一難しい曲として登場している。

 1873年にロシアの裕福な家庭に生まれたラフマニノフは、幼少の頃から人並みはずれた音楽の才能を発揮する。12歳でモスクワ音楽学院に入学、高名な教授ズヴェレフに師事し、16歳頃からすでに作曲に取り組み、チャイコフスキーとも交流を持つ。
 1918年、ロシア革命による新体制を支持せず、アメリカへ亡命する。その後は、二度とロシアの地を踏まなかった。アメリカでは精力的な演奏活動を続け、作曲ができずに苦しむ時期もあったがまたしても復活し、人気と賞賛を不動のものとする。1943年、ガンのためビヴァリーヒルズで死去。




・1873年:4月1日、ロシアのノヴゴロドのオネーグに生まれる。父は軽騎兵隊上級将校ワシーリー・ラフマニノフ、母はその妻リュボーフィ。
・1882年:ラフマニノフ家破産。オネーグの領地は競売に出され、一家はペテルブルグへ移る。ペテルブルグ音楽院入学。
・1885年:ピアニストの従兄弟ジロティのすすめで、高名な教授ズヴェレフに師事するため、モスクワヘ行く。モスクワ音楽院に入学すると共に、
ズヴェレフの家に寄宿して基礎を学ぶ。
・1888年:ジロティが教える上級クラスに進級。
・1889年:作曲活動を巡って対立したズヴェレフの家を出て、親戚の家へ移る。そこで将来の妻、従姉妹のナターシャと会う。
・1891年:「ピアノ協奏曲第1番」作曲。
・1892年:プーシキンの詩「ジプシー」を主題とした一幕のオペラ「アレコ」を作曲。モスクワ音楽院を優秀な成績で卒業。「前奏曲嬰ハ短調」作曲。
・1893年:ボリショイ劇場にて「アレコ」上演。一度は決別したとはいえ敬愛した恩師ズヴェレフと尊敬するチャイコフスキーが相次いで死去。
悼みの想いから「悲しみの三重奏曲」を作曲。幻想曲「岩」作曲。
・1894年:「ジプシー綺想曲」作曲。
・1897年:ペテルブルグで「交響曲第1番」初演。指揮者の技術不足のために失敗に終わり、酷評を浴びる。
・1899年:ロンドンへ演奏旅行。初めての外国での演奏は、非常に高く評価される。
・1900年:「交響曲第1番」の失敗による自信喪失が悪化。精神科医ダール医師の暗示療法を受ける。
・1901年:治療により回復。「ピアノ協奏曲第2番」作曲。感謝を込めてダール医師に捧げる。自身の演奏による初演から破格の賛辞を浴びる。
・1902年:従姉妹のナターシャと結婚。
・1903年:歌劇「けちな騎士」作曲。
・1904年:ボリショイ劇場の指揮者に就任。2シーズン務める。歌劇「フランチェスカ・ダ・リミニ」作曲。
・1906年:家族と共にドレスデンに移る。
・1907年:「交響曲第2番」作曲。
・1909年:モスクワに帰り、高度な演奏技術が要求される「ピアノ協奏曲第3番」作曲。初のアメリカ演奏旅行に旅立ち、大成功をおさめる。
交響詩「死の島」作曲。
・1913年:合唱交響詩「鍵」作曲。
・1914年:イギリスへ演奏旅行。
・1915年:「ヴォカリーズ」作曲。
・1916年:「音の絵」作曲。
・1917年:家族と共にクリミア半島へ。9月、ヤルタでロシアでの最後の演奏会。12月、ロシア革命から逃れるために家族で出国、
デンマークのコペンハーゲンへ。
・1918年:アメリカへ移住。
・1919年:アメリカ各地への演奏旅行を始める。ピアノ制作者のスタンウェイと親交を深める。各地で熱狂的な支持を得るが、
作曲する時間がとれずに苦しむ。
・1934年:ルツェルン湖畔で「パガニーニの主題による狂詩曲」作曲。
・1935年:交響曲としては最も完成度が高いと言われる「交響曲第3番」作曲。アメリカとヨーロッパで演奏活動を続ける。 
・1940年:第二次世界大戦でヨーロッパの政情が不安定になったため、アメリカに腰をすえ、最後の作品となった「交響的舞曲」を作曲。
・1941年:ドイツ軍のロシアへの侵攻に心を痛め、演奏のギャランティをソビエト総領事に寄付する。
・1943年:2月、テネシーで演奏会を開くが、これが最後となる。3月28日、ビヴァリーヒルズでガンのため死去。


監督:パーヴェル・ルンギン
撮影:アンドレイ・ジェガロフ
美術:ウラジーミル・スヴェトザロフ
衣装:タチヤナ・パトラハリツェヴァ
字幕翻訳:太田直子
キャスト:エフゲニー・ツィガノフ、ヴィクトリア・イサコヴァ、ミリアム・セホン、アレクセイ・コルトネフ、アレクセイ・ペトレンコイーゴリ・チェルニェヴィチほか
提供・配給:ギャガ・コミュニケーションズ
2007年/ロシア/96分/カラー/シネスコ/ドルビーデジタル
公式ホームページ

(C)2007 THEMA PRODUCTION JSC ? 2007 VGTRK ALL RIGHTS RESERVED
2008.04.09掲載
ジェイン・オースティンの読書会(THE JANE AUSTEN BOOK CLUB)
痛いほどきみが好きなのに(The Hottest State)
movie






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