top pageothers>08.04_Vol01













  大相撲三月場所は横綱、朝青龍の優勝で幕を閉じた。昨年のサッカー騒動から続いていたバッシングはもう聞こえてこない。

 この騒動以前、彼との交友を誇らしげに番組で語っていたみのもんた氏もバッシングに参加したが、それも沈静した。何かというと登場した漫画家のやくみつる氏、「もう彼は過去の人」と語った内舘牧子の声も一般の報道では聞こえなくなった。一時、騒動を楽しんだ私たちも、いつものこと、こんなもんだろうと思っている。

 他にも、騒動にはさまざまな立場の人たちが登場した。内向きの姿勢で、相撲協会の改革はできないと批判を浴びた北の湖理事長、協会発行の記者証を一時的に取り上げられた元NHKアナウンサーで東京相撲記者クラブ会友の杉山邦博氏など。あの騒動は何だったのだろうか。

 この件の最大の当事者である朝青龍は何も語っていない。モンゴルから帰国後に行った「謝罪」記者会見も通り一遍のもので、彼の本音をうかがい知ることはできない。彼は何を思っていたのだろうか。

 一般紙、スポーツ紙、テレビ報道などでは彼の言動や傲慢な態度がたびたび批判された。その場に立ち会っていないので、事実かはわからない。ただ、テレビで見た彼の表情にはとまどいと苛立ちがあった。その苛立ちがどこからやってたのかに、この騒動の本質がある。

 小学生の時だった。本場所に足を運んだことはないが、なくなった畳屋の祖父が高砂部屋と親交があり、朝稽古に連れて行かれた。見たこともないような大男の身体が目の前でぶつかっている。頭と頭がぶつかると、ゴツンではなく、ゴーンという音がした。中には出血する力士もいたし、身体全体から湯気も上がっていた。恐ろしさから祖父の後ろに隠れ、身を屈めていた記憶が鮮明に残っている。

 相撲とは異なるが、スポーツという面では、個人的な体験があり、そこから、今回の騒動の背景を類推できる。高校時代、夏の野球合宿の時のことだ。ピッチャーの投球は外角低め、バットを繰り出すのを一瞬、止め、ライト前にライナーでヒットした。このバットを「一瞬、止め」「タイミングをずらす」という感覚。言葉で表現すると、このようになるが、実際には、第三者にそれをうまく伝えられない。
 放課後、遊びでやっていたサッカーでも同様の経験がある。左側からのコーナーキック、それをダイビングヘッドでゴールにたたき込んだ記憶。ゴールの方へ曲線を描いて近づいてくるボールを目で追いながら、頭を少しだけ右に傾け、当たる瞬間にボールに向けて頭を繰り出す。言葉では、こんな感じとなるが、これもうまく伝えられない。
 そして、数十年を経ても、「身体」には、その時の感覚が残っている。それだけ「身体性」とは深く、このように書き連ねている「言語性」とは異質なものだ。

 プロのアスリートでもなく、アマチュアで野球とサッカーを楽しんでいた程度でも、この種の「身体性」に関わる事柄は第三者には説明できない。
 言い換えれば、「身体性」に関わることは第三者、他者からはわからないのではないか。そんな疑問を、一連の朝青龍騒動で感じており、彼の苛立ちの背景には、似たような感覚があるのではないかと類推した。彼風の言葉でいえば「あんた達に相撲の何がわかっているのか」ということになるのだろうか。そして、これは「それを言ってしまえばおしめいよ」という言葉だ。

 この「身体性」が極めて個人に属することを理解しない限り、朝青龍の本音を推し量ることはできないのではないか。

 マスコミに登場する識者という人たちは、批判的な言動をとったとしても、結果的に興業としての「相撲」に貢献している。かのアナウンサー氏も、力士の結婚式で司会を務めていると報じられたが、大きくくくれば「相撲」という興業世界の一員だ。

 もうひとつ問題を複雑にしたのが、相撲協会が文部科学省の管轄下にある財団法人だということ。また、不幸にも、同時期に若い力士へのリンチ事件も起こった。

 相撲は日本の国技である。横綱には、高い品格が求められる。相撲の由来をたずねれば、それは、遠い昔、豊穣の祈りと深く関わる神技だった。今となっては、一般のファンがそこまで伝統を遡ることはできない。ただのスポーツとして楽しんでいる人が多いのではないだろうか。
 そこに安易に「伝統」を持ち込む背後には、政府・文部科学省の思惑も垣間見られ、違和感がある。すでに「伝統」は遠くにある。極論すれば、プロレスの興行団体のように、相撲協会は株式会社化する手もあるかもしれない。それならば、朝青龍のようなヒール・悪役も必要だし、実際に「静」の白鵬、「動」の朝青龍が実現し、興業的、プロモーション的には、大成功をおさめているのだから...。

 求められる「品格」も実は曖昧で、よくわからない。そんな時代の雰囲気を表すように、沢山の「品格」本も売れているが、読んでみると、閉塞する現状への回答にはなっていないし、一種の伝統回帰、先祖帰りが語られているだけだ。こうあるべきだとの「品格」は思考を制限する。

 きっと問題はこうだ。多くの識者といわれる人たち、そして財界リタイア組の名誉職のような横綱審議委員の面々、結果的に相撲協会の興業に貢献しているマスコミ・各メディア。
 第三者からはうかがい知れず、朝青龍本人も決して説明できない「身体性」という特性。「あんた達に相撲の何がわかっているのか」といわなかったのが彼に残された個人としての「品格」かもしれないとの視点。

 三月場所、連勝を続けていた朝青龍は突然、二連敗した。原因は身体のバランスを崩したのではなく、「身体性」を制御する精神のバランスが崩れたからだろう。その後、立ち直り、優勝するまでの過程で、彼の中に大きな変化があったはずだ。それは「あんた達に相撲の何がわかっているのか」を決して語らない決心からやってきたに違いない。
 
[2008.04.13]

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