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 スティーブ・ジョブスが逝ってから一ヶ月が経とうとしている。CEOの職務を果たせないので第一線から退くと発表された時から、その日が近いのではと思っていたが、いざ、そうなると大きな喪失感で愕然とした。

 IT関連の仕事はマニュアル制作・テクニカルライティングからスタートした。その際に参考としたのがアップルコンピュータのマニュアルだった。あるところから、同社の「マニュアル作りのマニュアル」を入手し、それを読み込んだ。ごく普通の人のためにハードウエアやソフトウェアの情報を伝えるとはどのようなことなのかを分析し、それを実現するための方策もチェックリスト付きで極めて具体的に書かれていた。その徹底さぶりには驚かされ、「わかりやすさ」の追求という面では、彼が何らかの関わりを持ったと想像した。
 某大手家電メーカーのマニュアル編集も受託したが、マニュアルはあくまでも保証情報が漏れ無く掲載されていることが最重要で、また製品完成後に始める副次的なものであった。アップルコンピュータのケースではハードウエアやソフトウェアの開発段階からマニュアル担当も関わり、各チーム間で相互に影響し合いながら、同時並行で作業が進められるのを知り、それこそがあり得べき姿だと知った。

 そしてマッキントッシュに出会った。今でも手元にMacintosh専門月刊誌「MACWORLD」の創刊号がある。表紙では若き日のジョブスが自慢気に3台のマッキントッシュを従えてこちらを睨みつけている。
 どうしてもマッキントッシュに直接、触れたい。とても高価だったので購入できず、当時、数少ないアップル製品の取扱い商社であった日本橋小伝馬町のハイテックス社を訪ね、担当のU氏の好意で借りるができた。
 そして出版できたのが1985年10月に翻訳本としてマグロウヒル社から刊行の「パソコン通信ガイド マックでテレコミュニケーション」であった。ここでいうテレコミュニケーションとはパソコン通信のこと。米国で隆盛だったコンピュサーブでのテレコミュニケーションの解説本だった。

 数カ月間、マッキントッシュ体験を続け、その先進性に魅了された。当時、この国でパソコンといえばNECのPC9801が主流で、日本語ワープロソフトも単漢字変換、ようやく24ドットの荒い文字がプリンターから打ち出されるという状況だった

 それからもアップルコンピュータとは付かず離れず付き合ってきた。千駄ヶ谷に本社があった1990年代の半ばには、マッキントッシュの建築用ソフトウェアのプロモーションに参加した、今では知らない人が多いと思うが、当時、AutoCADにはマック版もあった。
 そして、この時期に友人のシステムエンジニアに見せてもらったのがアップルを放逐されたジョブスの手になる「NeXT」であった。やがて彼がアップルに復帰後に公開され、現OSにも引き継がれているデスクトップやアイコンなどの美しさ。その萌芽が、この「NeXT」に見られた。友人曰く「背後ではUNIXが動いています」。ジョブスが当時、どこを目指していたのかも理解できた。

 このあたりの経緯は、ベストセラーとなっている「スティーブ・ジョブズ I 」「スティーブ・ジョブズ II」(ウォルター・アイザックソン著・井口耕二翻訳:講談社刊)に詳しい。
 彼の死は我が国でも大々的に報道され、この本は若い学生やビジネスマンにもよく読まれているという。一方で、彼らが株式の時価総額世界一の企業を創り上げたカリスマとしてのジョブス、その経営書としてでも読むとすると、肩透かしを食わされる。

 ジョブスは1955年生まれだが、1960年代の反体制的な気質を備えていた少し前の世代の影響を受けていた。特に彼の育った西海岸はヒッピー文化発祥の地であり、彼もそんな雰囲気の中で育った。アップルコンピュータ設立以前の彼の「前史」はドラッグとセックスと国内外での放浪で満ち満ちていた。

 また、彼の性格の特異性が、ことさら強調され、繰り返し、戯画化されて描かれていることに違和感を覚えた。その性格の特異性は、彼の残した仕事にどれだけの貢献があったのか。結果としてはプラス・マイナス・ゼロだったように思える。彼が数々のプロダクツに具体的にどのように関わったのかは曖昧で、ここもひとつの肩透かしだ。

 それでも、さすがにジョブスが公開を認めた公式?自伝らしく、今まで表面的には知っていたスカリーやビル・ゲイツとの関係などの内幕が事細かに語られている。中でも最も興味を惹かれたのは、彼がゼロックスのパロアルト研究所を訪ねた際の出来事だ。
 ジョブスがパロアルト研究所で見たかったのは主にワークステーション「Star」。今では当たり前となったテスクトップ概念やマウスによる操作系などなどを採用。
 当初、ゼロックスは、アップルの公開前株式の購入と引き換えにジョブスの来訪を認めたが、彼に全ては見せなかった(見せたくなかった)。まだ隠されているものがあることに気づき、激怒したジョブスは、ゼロックスの本社役員に電話し、結果として彼が望んだ全てを見ることになる。

 この経験から多くのインスピレーションを受けたジョブスは、それまでのコンピュータの概念を覆すMacintoshの開発に猛進する。

 ジョブスはプログラムは書けない。その点をビル・ゲイツは見下していたそうだ。では結局、ジョブスとは何者だったのだろうか。ひとつの回答は、世界で誰よりも厳しい一番、最初のユーザー。優秀な技術者と資金があれば、彼が思い描くことが「できる」のは当たり前。その「できる」を背後に隠し、人の日常的な動作と技術を繋げる。その橋渡しを世界で誰よりも厳しい最も最初のユーザーとして行った。

 iPhone 4S登場のニュースで乳母車に乗った幼児がiPhone 4Sを操作(彼は操作とは感じていない)していた。iPhone 4Sをしっかりと持ち、右手の人差指を忙しなく動かしていた。人差し指を右に動かすと、ページが捲れる。彼がiPhone 4SのOSと友達にでもなった瞬間だった。ここにジョブスの目指した「インターフェイスの真骨頂」があった。

 
[2011.11.08]

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